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研究活動

UNIT3講演会「妙好人の死生観と願いーその言行から苦悩を超える道を学ぶ」の開催

ユニット3
開催日時 7月3日(火)10:45~12:15
開催場所 深草学舎 顕真館
講師 菊藤明道
京都短期大学(現 成美大学短期大学部)名誉教授、文学博士
参加者 一般聴講歓迎・事前申込不要

本講演会は、研究展示「妙好人における死生観と超越」の関連講義として開催いたします。
 

UNIT3 講演会「石見の妙好人」開催のお知らせ

ユニット3
開催日時 6月26日(火)13:15~14:45
開催場所 大宮学舎 本館2階講堂
講師 神 英雄 氏
石正美術館、浜田市世界こども美術館学芸課長

本講演会は、研究展示「妙好人における死生観と超越」の関連講義として開催いたします。

UNIT3 公開シンポジウム 浄土教における死生観と超越

ユニット3
開催日時 2011年11月29日(火)13:15~16:30
開催場所 龍谷大学大宮学舎本館2階講堂
講師 【パネリスト】
Richard K.Payne(IBS所長)
福原隆善(元佛教大学学長)
林智康(龍谷大学文学部教授)
【通訳】
那須英勝(龍谷大学文学部教授)
【司会】
井上善幸(龍谷大学法学部准教授)
参加者 一般聴講歓迎
事前申込み不要

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報告

 龍谷大学大宮学舎本館2階講堂において、ユニット3主催の公開シンポジウム「浄土教における死生観と超越」が開催された。パネリストであるアメリカ・カリフォルニア州バークレーの仏教大学院(IBS)所長・ユニット3共同研究者のリチャード・ペイン先生(IBS所長)、元佛教大学学長の福原隆善先生、本研究所ユニット3リーダーの林智康先生が、統一テーマに基づき、それぞれの立場より報告を行った。

リチャード・ペイン先生

 「佛道の位置を定めること―親鸞の信心・菩提心・金剛心の一体的理解について―」と題し、大乗仏教における死生観について報告を頂いた。まず、欧米において親鸞思想が理解される場合、「faith」=「信心」と解釈されてしまうように、既存の欧米宗教思想と重ねて理解されてしまう現実があると指摘された。その問題の解決には、親鸞が信心と菩提心と金剛心を一体的に解釈していることに注意しなければならないと提言され、かつそのような解釈は、大乗仏教の伝統にみられる仏道観との関係についても一つの視座を与えてくれると述べられた。また、仏道を表す漸教と頓教、さとりの位置を表す内部と外部という四重の配列法によって考えた場合、親鸞思想は、信心が頓教、さとりの位置が外部と解釈できる。しかし、近代教学者は、外部としての浄土を遠ざけ、非二元的な解釈を行うことで、西方浄土という概念が持つ創造的理解の可能性を消失してしまったという。信心と菩提心と金剛心の一体的理解、四重の配列法によって親鸞思想を再考察することで、非心理的/非象徴的な浄土としての親鸞思想の立場を受け入れていくことができるのではないかと述べられ、そのことが欧米における親鸞思想理解の問題に一つの解決策を提示するのではないかと結ばれた。

 

福原隆善先生

「法然上人の死生観と超越」

 福原先生は、法然の言葉を「生死について」「生死出離について」「臨終と平生」「念仏生活」「臨終(死)について」「法然自身の死」「往生後について」「還浄について」と分類し、死生観にまつわる多くの文言を紹介しながら、法然には二つの死生観が見出されると指摘された。一つは、生と死を一体として捉え、いまが平生であり臨終であるという無常生死の理解であり、もう一つは、無始より煩悩罪濁にまみれて輪廻を繰り返してきた生死をいま生きているという理解である。この二つの死生観によって示された法然の生死解脱の方法こそが、阿弥陀仏の選択本願念仏であったという。現生の死は、念仏によって極楽への生として捉えられ、極楽に生まれれば、成仏への道は自然であり、さらに菩薩道実践の積極的な活動として転化される。そして、娑婆世界に還るのは衆生済度のためであり、再び生死流転を繰り返すことはない。ここに、現生においては共に往生を目指し、往生後は積極的に衆生救済の活動をするという法然浄土教の菩薩道があると結ばれた。

 

林智康先生

「親鸞の死生観と超越」

 林先生は、仏教における生と死の理解を紹介されながら、親鸞思想における死生観について語られた。まず、親鸞思想は、六波羅蜜行などの諸行にはよらず、弥陀の本願を信じ念仏を称えることによって、浄土に往生して涅槃を証する教えであることを押さえ、真実信心を獲得する念仏者は、現生において正定聚に住し、信心定まるとき往生が定まるのであるから、臨終来迎を否定する教えであることを指摘された。その上で、親鸞思想における菩提心、浄土の捉え方を紹介された。菩提心は、曇鸞思想を受けて願作仏心(自利)・度衆生心(利他)であることを明かし、横超の菩提心と解釈されている。また浄土については、物質的・感覚的表現である「極楽」の語よりも、精神的・本質的表現である「真土」「無量光明土」「諸智土」「涅槃」「滅度」「安楽国」「安養国」などの語を用いている傾向が強い。親鸞思想は、大乗仏教の思想を十分に踏まえ、かつ感情的表現も加えながら、往生浄土という生死解脱の道を明らかにしていると述べられた。

 

 以上、三名の報告を踏まえ、来場者も含めた質疑応答が行われた。法然思想では生死即涅槃をどのように捉えているのか、法然思想における「還浄」とはいかなる意味か、親鸞思想における信心獲得とは何をもって信心獲得というのか、生死即涅槃といった場合の生死とはどのように理解すればいいのか、など多くの質疑応答がなされ活発な議論が行われた。

 浄土教の死生観を考える場合、迷いの生死界と浄土との関係をいかに理解するのかということが一つのカギとなる。その点について今回のシンポジウムで得られた新たな知見を記しておく。一つに、浄土教の死生観を考える場合には、「自己の外部に定置されたさとりの場としての浄土」という浄土教の基本的立場を押さえることが一つの視座になるということである。二つに、法然思想における死生観を考える場合には、民衆のなかにおいて一から本願念仏を広めなければならなかった法然の立場を押さえなければならない。そのため法然思想では、生死をいかに離れるかという点に力点が置かれ、その上で死生観が語られているということである。三つに、親鸞思想における死生観を考える場合には、自らの深い信仰を語っているという立場を押さえなければならない。そのため親鸞思想では、生死即涅槃というように如来との関係性が積極的に問題とされ、その上で死生観が語られているということである。

(RA北岑)

 

親鸞聖人750大遠忌 記念講演

ユニット3
開催日時 2011年5月24日(火)13:15~16:30
開催場所 龍谷大学 大宮学舎 清和館 3階大ホール

テーマ:親鸞と元暁-悪人正機について
講 師:康東均 氏(韓国東亜大学校人文科学大学教授)  
テーマ:親鸞聖人の教法表現
講 師:矢田了章 氏 (龍谷大学名誉教授)
 

主催:龍谷学会


 問い合わせ先
 龍谷大学真宗学合同研究室 (龍谷大学大宮学舎内)
 TEL(075)343-3311 内線5302 
 E-mail gakkai@ad.ryukoku.ac.jp
 

浄土三部経における死生観

ユニット3
開催日時 2011年3月3日(木)15:00~16:30
開催場所 龍谷大学大宮学舎 清和館3階ホール
講師 大田利生先生(文学部教授・真宗学 ORC研究員)

人間・科学・宗教オープン・リサーチ・センター主催

ユニット3公開講座

入場料無料 参加申し込み不要

どなたでもご参加ください

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 本公開研究会では、「浄土三部経における死生観」というテーマのもと発表が行われた。

 浄土三部経の成立時、死をどのように解決し、いかに乗り越えていくのかということが大きなテーマであったという。『無量寿経(梵本)』第一願には、

もしも、世尊よ、かのわたくしの仏国土において、地獄や、畜生や、餓鬼の境遇や、阿修羅の群れがあるようであるならば、その間は、わたくしは無上なる正等覚をさとりません。

とあり、第二願には、

もしも、世尊よ、かしこのわたくしの仏国土に生まれるであろう生ける者たちが、再びそこから死没して(cyutvA)、地獄や、畜生や餓鬼の境遇や、阿修羅の群れにおちいるようであるならば、その間は、わたくしは無上なる正等覚をさとりません。

とある。経典成立当時、一般的に死ということが、地獄、餓鬼、畜生に堕ちていくこととして捉えられ、その恐怖を解決し、いかに乗り越えていくのかという問題が経典成立に大きく関係しているとされる。

 また、死生観を考える場合に問題としなければならないことは、臨終の時に阿弥陀仏が聖衆や菩薩を随えてその人の前に来迎するという臨終来迎の思想である。

梵本『無量寿経』三輩段

また、アーナンダよ、およそいかなる生ける者たちであっても、かの如来を形相の上からいくたびも思念し、多くの無量の善根を植え、覚りに心をさし向け、かしこの世界に生まれたいと誓願するであろうならば、かのアミターバ如来・応供・正等覚者は、かれらの臨終の時が到来したときに、多くの比丘の集団にとりまかれ、恭敬されて、〔かれらの前に〕立たれるであろう。それより、かれらはかの世尊を見て、澄浄な心になり、まさしくかしこの極楽世界に生まれるで〔あろう〕。

臨終とは、生きている最後の生の領域であり、その場面において来迎思想が説かれることは、死生観を考えていく上で重要な思想である。臨終来迎において「仏にあう」(見仏する)ことで心が澄浄となり、地獄、餓鬼、畜生のない極楽世界に生まれるという教説は、反顕すれば、生きている我々には澄浄の心がなく顛倒しているということでもある。澄浄の心がなく顛倒し、地獄、餓鬼、畜生に堕す死への恐怖を乗り越えていく契機に臨終来迎が説かれる。発表では、このような臨終来迎思想が、初期無量寿経典である『大阿弥陀経』や、『阿弥陀経』などにもはっきりとした形で説かれており、浄土経典成立の背景を考えていく上で非常に重要な意味を持ち、かつ多くの人に魅力を感じさせてきた浄土教的死生観であったと指摘された。

 

【新たに得た知見及び課題】

 本研究会において新たに得られた知見、及び今後の研究課題について以下に2点挙げておく。

 1つに、浄土経典成立時と現代社会においては、一般的な死に対する認識の相違があるのではないかということである。浄土経典成立過程においては、永遠に地獄、餓鬼、畜生に堕する契機として死が受け止められ恐怖を抱かせる。しかし、現代社会では、現存在を消失するという契機に死が受け止められ恐怖を抱かせている。時代状況における生死観の相違が今後の課題として得られた。

 2つに、浄土経典における死の表現は、「死没して」と、「臨終の時」と訳される語などがある。これらの表現の相違は、どのような意味を持っているのかということが今後の課題として挙げられた。

(RA北岑大至)

 

浄土経典を学んで

定年退職記念最終講義

ユニット3
開催日時 2011年1月18日(火)13:15~14:45
開催場所 龍谷大学大宮学舎 清和館3階ホール
講師 大田利生先生(文学部教授・真宗学)

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