• 新着情報
  • 研究目的・意義
  • センター長挨拶
  • 研究体制
  • 研究活動
  • 研究成果
  • 地図・お問い合わせ
  • リンク
  • 更新情報
  • 龍谷大学
  • 2002~2009年度 人間・科学・宗教オープン・リサーチ・センターのサイト

研究活動

ハーバード大学との共催による研究会「彼方からの近き声」

日本仏教とヨーロッパ大陸の哲学

開催日時 2012年11月30日金曜日 4 時~ 6時
開催場所 ハーバード大学 世界宗教研究センター

「彼方からの近き声:日本仏教とヨーロッパ大陸の哲学」

Close Voices from Far Away: Japanese Buddhism and Continental Philosophy

Harvard Divinity School

Center for the Study of World Religions

Common Room

Sponsor Center for the Study of World Religions and the Center for Humanities

Science and Religion at Ryukoku University, Kyoto

趣旨:

Note Three presenters will offer a look at the Zen and Shin Buddhist traditions in the light of continental philosophy, and continental philosophy in the light of Japanese Buddhism.

 

発表

"Naturalness in Zen and Shin Buddhism"

Bret W. Davis, Associate Professor of Philosophy, Loyola University Maryland

 

"Levinas in the Light of Shinran"

Charles S. Hallisey, Yehan Numata Senior Lecturer on Buddhist Literatures, Harvard Divinity School

 

"Freedom in Shinran and Heidegger"

Dennis Hirota, Professor of Shin Buddhist Studies, Ryukoku University and visiting scholar at CSWR

オレゴン州立大学 シンポジウム"The Storied Self: Issues in Buddhist Narrativity"が開催

開催日時 2012年10月19日~20日
開催場所 オレゴン州立大学Lawrence Hall, Room 177
講師 Akiko Walley (University of Oregon), David Quinter (University of Alberta), Eric Tojimbara (University of Oregon)
Richard Payne (Institute of Buddhist Studies), Elizabeth Grosz (University of Oregon) Jared Lindahl (Waren Wilson College)
Naoki Nabeshima (Ryukoku University) and Maram Epstein (University of Oregon)

International Conference

The Storied Self: Buddhist Narrativity in Comparative Context

October 19-21, 2012

University of Oregon, Eugene, USA

This event is cosponsored by the Center for Asian and Pacific Studies Jeremiah Speaker Fund, the Department of Religious Studies, Ryukoku University Open Research Center, the Institute of Buddhist Studies-Graduate Theological Union, the Oregon Humanities Center, the Department of Philosophy, the Department of East Asian Languages and Literatures, the Asian Studies Program, and the College of Arts and Sciences.

Conference Organizer: Mark Unno, Department Head and Associate Professor of Religious Studies, University of Oregon

 

Keynote Addresses

Willoughby Britton (Brown University)

“Narrative Self and Buddhist Meditation in Western Psychiatry”

Jason Wirth (Seattle University)

Respondent: Naoki Nabeshima (Ryukoku University)

Individual Papers

Maram Epstein

“The Paradox of the Buddhist Self in Ming Qing Novels”

Elizabeth Grosz

“"Nishida, Watsuji, and Phenomenology: the Self in Context"

Jared Lindahl

"Transforming the Self: Narrativity in Buddhist Stages of the Path Literature"

Naoki Nabeshima

“Bonds Transcending Life and Death: Stories of Suffering and Joy from the Great Eastern Japan Tragedy of 2011”

Richard Payne

"The Self is a Self-Constructing Construct: Narrative and Buddhist Praxis"

David Quinter

“Eison and Problems of Buddhist Narrativity”

Eric Tojimbara

"Myoe Re-membered: Integrating Text and Body in the Hagiography of Myoe Shonin"

Myoe Koben's (1173-1232) act of severing his ear at the ago of twenty four

Akiko Walley

"Presenting the Self/ Self Presence: The Function of Inscriptions in Early Japanese Buddhist Art"

報告を見る

報告を閉じる

成果概要

   物語(ナラティヴ)研究は、宗教的研究を含み、人間性を開発する重要な構成要素としてますます注目されている。個性(selfhood)に関する物語性は、社会構造の多様な文脈との緊張の中で生まれる。この国際会議The Storied Self: Buddhist Narrativity in Comparative Context「物語る自己―比較文脈における仏教の物語性」では、仏教の死生観と迷いの超越の実際的意義、すなわち、人生の危機的な問いにさらされた自己の物語性を仏教研究の角度から考えるために計画された。精神医学、禅仏教学、浄土教研究、宗教哲学、歴史学、文学研究、臨床心理学の分野の国際的な研究者が学際的に協同して発表した。

   新たに得た視点は、西洋社会に浸透した仏教の瞑想の誤解と真価である。特に、基調講演の一人、Willoughby Britton(ブラウン大学教授、精神科医)は、ダライラマ14世と共に、心の平安をもたらす瞑想と脳科学の関連性を研究する先端の精神科医であり、“Narrative Self and Buddhist Meditation in Western Psychiatry”「西洋の精神医学における物語る自己と仏教の瞑想」というテーマで発表した。物語る自己は心の健康を快復させる精神医学において重要な役割を果たしている。Willoughby Brittonは仏教の瞑想を精神医学の干渉(治療)、認知療法(cognitive therapy)に組み入れ、否定的な物語を意義あるものに変えうるように取り組んできた。過去30~40年間で仏教の瞑想方法は評価を得て精神医学に取り入られてきた。仏教の瞑想を基盤としたマインドフルネス、「今ここでの経験に評価や判断を加えることなく、静かに省察する」といストレス軽減法は、学校やアメリカの軍隊などに適用されている。その瞑想によって抑うつや不安などが軽減され、集中力が高まるというよい効果が報告されている。瞑想によってすべてから自由になる。しかし他面、瞑想の導入により、自己であるという意識が希薄になり、人格が消えうせる(depersonalization)、自己を喪失してしまうという恐怖が立ち現れる事例も報告されている。ダライラマ14世は、このように瞑想によって人格が消えうせてしまうという体験に陥るのは、「理論的準備の欠落(lack of theoretical preparation)」であると助言したという。もう一人の基調講演者は、Jason Wirth(シアトル大学教授、禅仏教学)であり、『正法眼蔵』の研究と禅の修道体験を踏まえて、時間の概念、物語る自己と芸術に焦点が当てて発表した。永遠の時の中で、小さな自己の時はどこにあるのか。物語る自己は迷いでありつつ、さとりにどうかかわるかといったテーマである。これらの基調講演を受けて、レスポンデンスをした鍋島(龍谷大学教授、真宗学)には、仏教の真価が問われた。西洋社会に導入された瞑想は、空(emptiness)や無我(selflessness)という概念が誤解されて、自己の存在が大宇宙の中で小さくなり消えてしまいそうな恐怖をもたらすという。それでは、小さな自己の物語、消え入りそうになってしまうネガティブな側面をどう受け止めたらよいのか。そこで、それに応える教理と事例として、親鸞の本願思想と東日本大震災で学んだ遺族の語る真実の物語を紹介した。阿弥陀仏の摂取不捨の本願は海に喩えられる。「如衆水海一味」と正信偈に説かれるように、阿弥陀仏の本願海は、あらゆるものをうけいれ、さとりに転じる母である。自己の小さな物語は一滴の水、迷い、不安のくりかえしである。しかし、海は、一滴の水のような私の物語を自己自身とし、一滴の水は、海を自己自身としている。したがって大いなる海にとって、一つひとつの小さな物語は不可欠である。また、東日本大震災で経験した真実の話とは、町民に避難を呼びかけ続けて、津波に流されて亡くなった故遠藤未希(24)さんの話と、未希さんの両親が語った、かけがえのない虹の物語である。ご遺体が見つかって葬儀が行われる日に、一直線の虹が空にかかった。その写真を私はご両親に見せていただいた。その一直線の虹の写真は、未希さんの両親にとっては、娘の未希さんの死が特別なものであり、未希さんが町民を救うために避難を呼びかけつづけるという特別な役割をもっていたことを感じさせるものであった。しかもその写真は、単に両親にとってだけでなく、同じように家族を失って生き残った遺族にとっても勇気づける物語である。したがって迷いを照し護る光の物語はどれほどタイニーであっても、普遍性を有する。空や無我の世界は、小さな物語る自己が大いなる世界とつながっていることを示すものであり、自己を虚しくすることを教える思想ではないことを話した。このシンポジウムでは、基調講演者ならびに会場の聴衆との一体感が生まれた。(鍋島)

第5回日本スピリチュアルケア学会学術大会開催のお知らせ

各ユニット共通
開催日時 2012/09/29 ~ 2012/09/30
開催場所 龍谷大学 大宮キャンパス

 

HP     http://www.spiritual-care.jp/

UNIT1 国際ワークショップ 「親鸞とヨーロッパ大陸の哲学 Shinran and Continental Philosophy」

ユニット1
開催日時 2012年6月25日(月) 10:00 - 16:30
開催場所 龍谷大学 深草学舎 至心館2Fパドマ大会議室
講師 Presenters & Program 発表者とプログラム:
1. Hirota, “Dwelling in a World of Nearness”
2. Hallisey, “Seeing What Escapes Our Graze: Reading Shinran with Levinas”
- Lunch – 12:50–13:30
3. Davis, “Nishida and Levinas: Ethical Alterity and Religious Difference”
4. Fredericks, “Gadamer and Levinas”
5. Parkes, “Response: Shinran in the Light of Heidegger and Levinas”
参加者 Participants/Discussants 参加者・討論者:
1. Dennis Hirota (龍谷大学文学部教授)
2. Charles Hallisey (Harvard University, U.S.A.)
3. Bret Davis (Loyola University, Maryland, U.S.A.; Kyoto University)
4. James Fredericks (Loyola Marymount University, L.A., U.S.A.)
5. Graham Parkes (University College Cork, Ireland; Nanzan University)
6. Mark Csikszentmihalyi (University of California, Berkeley, U.S.A.)
7. David Matsumoto (Institute of Buddhist Studies, Berkeley, U.S.A.)
8. Eisho Nasu (龍谷大学文学部教授)

 今ワークショップは、クローズドでの開催。

報告を見る

報告を閉じる

IMG_0135.JPGIMG_0155.JPGIMG_0146.JPGIMG_0167.JPGIMG_0137.JPGIMG_0139.JPGIMG_0141.JPGIMG_0149.JPGIMG_0151.JPG

 

 発表・討論は全て英語で行われた。

 欧州哲学者(ハイデガー、レヴィナス等)の視点を通して、親鸞思想を再解釈しようという趣旨の元、本ワークショップはクローズドで行われた。

 参加者は終始活発に意見を出し合い、熱心な討論が行われ、大変密度の濃いハイレベルなワークショップとなった。

 親鸞とその思想を、多角的な視野から再認識・再解釈することができ、8名の参加者は新たな知見を得ることが出来た。

(RA 釋氏)

UNIT1 国際シンポジウム 「宗教と生命倫理」

ユニット1
開催日時 2012年5月28日(月) 13:15 - 16:30
開催場所 龍谷大学 大宮学舎 西黌2階 大会議室
講師 1. 「科学、倫理、宗教—キリスト教の場合—」(英語発表・日本語訳あり)
ジェームズ・J・ウォルター (ロヨラ・メリーモント大学教授(カトリック神学、生命倫理)、生命倫理研究所長)
2. 「心おきなく死ねますか —生老病死と終末期医療—」
早島 理 (龍谷大学文学部教授・実践真宗学研究科)
3. 「日本仏教と臓器移植」
ウーゴ・デッスィー (ライプツィヒ大学宗教学講師)
参加者 - モデレーター
廣田デニス (龍谷大学文学部教授、CHSRユニット1リーダー)
- レスポンデント
嵩 満也 (龍谷大学国際文化学部教授、CHSRユニット2)
鍋島直樹 (龍谷大学文学部教授、CHSRセンター長)
那須英勝 (龍谷大学文学部教授、CHSRユニット1)

CHSR ユニット1 & 実践真宗学研究科 共同

報告を見る

報告を閉じる


IMG_8990.JPG

①13:15-14:30

ジェームズ・J・ウォルター氏 (Prof. James J. Walter)

「科学、倫理、宗教:キリスト教の場合 The Intersections Between Science, Ethics and Religion: The Catholic Bioethical Tradition From an Historical Perspective」 

ロヨラ・メリーモント大学教授; カトリック神学、生命倫理、オースティン・アン・オマリー生命倫理研究所長(アメリカ合衆国) Loyola Marymount University, Los Angeles, Professor of Theology, Austin & Ann O'Malley Chair in Bioethics, The Bioethics Institute

 

 今発表では、ローマンカトリックの宗教伝統の視座から、科学・倫理・宗教の交差について論じる。

 最初にこれらの言葉の定義づけをする。

 科学とは、物質界に対するデータ、説明、解釈、評価に関わる。言い換えれば、科学とは 物質界における我々の経験とその固有の法則を意味づけることを意図する。

 倫理とは、我々の道徳上の体験に対する解釈や評価をともなう学問(科学)の一分野である。その論議はまた、価値観と道徳上の義務の体験や、善悪と正誤の判断を、解釈し意味づけようとするために、記述的で説明的でもある。

 宗教とは、例えば「何故我々は少しでも望むべきか?」等、究極の意味に疑問を掲げるものである。

 つまり“交差”により、科学と(神学上の)倫理が互いに関係しあい、いかにある一つのリソースが他によって使用されているのだろうかという、様々な方法なのである。

 第2の発表内容は、5つの違う方法(テーマ、交差)が、カトリック生命倫理学の歴史的な伝統は、特定の話題について科学と、道徳の公式化の判断に関するその解釈を用いていた。以下は、5つの“交差”、テーマに関する要点である。

 

テーマ1: 科学からの情報、説明、解釈、評価は、神学的倫理と道徳的判断に影響を及ぼすべく交差を交わらない。

テーマ2: 科学によって記述され説明される出来事は、神学的・倫理的見解から、再記述・再説明されるか、さらなる意味が与えられる。

テーマ3: 科学と科学的証拠は、神学倫理原則がそれから応用される出来事と状況の説明や分析をもたらす。

テーマ4: 神学倫理は、倫理的真理に対しその主張に重要性を加えるために、科学から権威を借りる。

テーマ5: 倫理学のデータ・解釈・説明は、それら科学と比較的独立している。それゆえ、それらは権威の相関的独立性を持っている。しかしながら、科学のデータ・解釈・説明は、科学自身よりその根拠からは答えきれないような疑問を、神学と倫理学へ掲げることが出来うる。

 

 特にテーマ5が生命倫理学上のトピックに関する今後の論議に、最も大きな可能性を持つということを論じる。 

 

IMG_9008.JPG

②14:40-15:40 

早島理氏 

「心おきなく死ねますか — 生老病死と終末期医療 —」

龍谷大学教授・滋賀医科大学名誉教授

 

はじめに

 今発表のテーマ「心おきなく死ねますか」は、終末期医療の問題を手がかりにして、仏教思想の視点から生命倫理を見直すことを意図したものである。また心おきなく死ねるのは、心おきなく生きてきたからであることも付言しておきたい。

 

1. 「生命倫理」を確認する

 「生命倫理」をここでは「主に医学・医療の視点からみたいのちのルール」と考える。この用語は比較的新しい言葉である。我が国で「生命倫理」そのものの基準的定義が提案されたのは2002年慶応大学で開催された医学系大学倫理委員会連絡会議においてである。そこで提案された生命倫理の基準は、

 「生命科学の発展がもたらす可能性」と「人間の尊重・尊厳」とのバランスである。

 とされ、具体的には次の3ヶ条の説明が付加されている。

 1) 生命倫理は共同体・社会の行動規範であり、個々人の倫理観とは異なる。

 2) 生命倫理は社会の中で生成・発展・生長・醸成する。先端医療の発展、時代とともに変化するものである。

 3) 生命倫理は生命科学の進展を阻止・阻害するものではない。社会が理解・許容できる範囲で生命科学を進歩・発展させる。

 ここで注目すべきは、生命倫理は「個々人の倫理観ではなく、共同体・社会の行動規範」であると位置づけられていることである。現代的課題である「脳死臓移植」を例に説明しよう。平成21年「改正脳死臓器移植法」が成立した。その個々の内容の是非を今は問わない。この改正法が上記の「共同体・社会の行動規範」の具体的なあらわれである。医療の治療手段として21世紀の日本社会が脳死者からの臓器移植を「社会の行動規範」として認知したのである。ただし、一人一人が脳死臓器移植をどのように受け止めるかは「個々人の倫理観」もしくは個々人の死生観による。あるいは「いのち」の受け止め方による。

 

2. いのちの受け止め方

 病気や交通事故などで親しい身内を亡くした時、私たちは思わず「なぜ死んだの?」と問う。お医者さんは「ガンで手遅れだったから」、あるいは「交通事故で出血多量だったから」と答えるだろう。お釈迦さんなら「それは生まれてきたからだよ」と応えるに違いない。全く異なる内容であるが両者とも正しい。前者は「生命の機能・構造・作用」からの回答、すなわち生命科学・医学医療が扱う「生命」の視点からの回答である。他方後者は「いのちの存在意義、生きていることの意味」からの回答、すなわち宗教・仏教が語る「いのち」である。さきどの脳死臓器移植で言えば、脳死臓器移植を可能にした移植技術や免疫反応・免疫抑制の説明は前者に連なり、「他者の生死に関わってまで長生きすることの意味は?」の問いかけは後者に基づくものである。

 近現代の医学医療を含む科学(サイエンス)が中世ヨーロッパにおける神学と哲学(広義)の拮抗対立関係を経て成立したことはよく知られている。両者の対立関係は「役割分担」すなわちここでのテーマに限定すれば、「生きることの意味」は神学が、「生命」の構造・機能の説明は「科学」が受け持つことにより乗り越えられ、後者が前者に束縛されることなく発展する礎を開いたと言われる。肝要なことは、生きることの意味を求めることは、現代の医学医療の学問体系には最初から含まれていないことである。したがって、現代の医学医療に関して「共同体・社会の行動規範」を扱う生命倫理は、「生命の機能・構造」に関する社会・共同体の許容範囲を論じることは可能でも、「いきることの意味」を論じることは難しいと言えよう。

 さらに医学・医療を含む科学は本来人間の欲望・願望(長生きしたい、健康でありたい)を充足するためにあり、生命倫理も同じ方向にある。他方、「いきることの意味」を問うことは、その根底に欲望願望の制御抑制をも含むものであり、生老病死すべてをいのちととらえ、人間の欲望・願望を煩悩ととらえる仏教思想こそが個々人の生き方死に方すなわち「生きることの意味」を問うものである。

 

3. 終末期医療と二項包摂

 一昔前まで、自分で食事が取れなくなる、意識がなくなる、あるいは自分で呼吸ができなくなると、残念ではあるがやがて死ぬであろうと本人も周りも受け止めていた。現代では医療が進展し、そのまま生かしておくことになる。穏やかに死ねない時代に変わったのである。死ねない時代の生き方死に方、終末期医療について生命倫理は種々の議論を展開するが、突破口を見い出すのは難しい。

 嘗て、医学医療は「生き抜く力」(最後の最後まで生を生き抜く)に重点をおいていた。緩和医療の考え方の広がりとともに「死の受容」(死を受容し、最後の時をその人らしく生きる)に力点が移動しつつある。あれかこれかの二者択一の考え方である。

 しかし、これからの終末期医療に重要なのは、矛盾対立する二項(生き抜く力と死に逝く力)の否定的選択ではなく、あれでもこれでもの「二項包摂」の思考方法ではないか。例えば有と無という矛盾対立する二項を否定的に一項選択するのではなく、有と無との両者をそのまま成立させている、仏教の「空」の考え方である。あるいは西田幾多郎の言葉を借りれば「絶対矛盾の自己同一」的な思考方法である。

 それは終末期医療における「・・・にもかかわらず生き続けることの意味、重さ」と「・・・にもかかわらず死に逝くことの意味、重さ」の両者をそのまま受け止めるあり方である。

 

IMG_9022.JPG

③15:40-16:30 

ウーゴ・デッスィー氏 (Dr. Ugo Dessì) 

「日本仏教と臓器移植:グローバリティー、ローカリティー、境界交渉 Japanese Buddhism and Organ Transplantation: Globality, Locality, and Border Negotiation」

ライプツィヒ大学宗教学講師(ドイツ) Religious Studies, University of Leipzig, Germany

 

 1997年まで日本は、脳死についての法律を持たない数少ない国の一つであった。死亡認定の通説は、心拍停止、呼吸停止と瞳孔散大という伝統的な「三徴候」に基づいていた。そして1997年に初めて、臓器移植は臓器移植に関する法律にしたがって統制されてきたが、2009年に臓器移植法は改正され、年齢を問わず、脳死を一律に人の死として認められてきた。日本の伝統仏教だけではなく、様々な宗教団体は脳死を一律に人の死とすることに抵抗した。脳死についての議論は今でも続いているが、この考えは日本宗教文化に合わないと主張する仏教者が少なくない。今回私が示唆したいのは、脳死臓器移植に関する議論がグローバル社会に密接に関連しているということである。

 第一のポイントはグローバリティー(globality)、つまり地球意識という概念に関係付けられている。

 日本での臓器移植に関する議論は1980代に始まり、国外の臓器移植の技術の発展の結果としても考えられると思う。こうした新しい医学的な知識・技術はますますグローバル化すると共に、日本でもグローバル・スタンダードに同調するべきだというプレッシャーが強くなってきた。このプレッシャーの一つの結果が、臓器移植法なのではないかと私は思っている。

 第二のポイントはローカリティー(locality)、つまり土地意識という概念に関係付けられている。

 グローバリゼーションの一つのダイナミックは価値観の相対化だが、地方レベルでは相対化と文化的帝国主義に対する抗議もよく見られると思う。このような抗議の一例は、脳死の概念に抗議する日本仏教からのものである。日本仏教の主張は、臓器移植のそれ自体が悪いのではなく、問題はそのタイミングであるという。

 日本仏教では、均一化に対する抗議は「三徴候」の伝統に基づき、西洋文化と個人主義とに結び付けられた脳死の概念を疑いの目で見ている。

 第三のポイントは宗教と科学の間の境界交渉(border negotiation)に関係していると考えられる。

 日本の内外であっても、法的な死の定義をめぐる論争は、世界中で見られる宗教サブシステムと科学サブシステムの間の争いである。この論争で、日本仏教は科学サブシステムが「いのち」の尊厳に反対すると主張し、科学が宗教的な次元に介入するかのように見られる。このような介入に対して、日本仏教は伝統的な価値観を主張しようとすることが、一般的なレベルでよく見られるのである。

 


IMG_9032.JPGP1040676.JPGIMG_9019.JPG

 以上3名の発表者より、それぞれのフィールドから「宗教」と「生命倫理」に関する提言がなされた。特にアメリカでカトリックの立場から生命倫理の研究を進めているウォルター氏の発表は、我々がなかなか知りうることのできないアメリカでの宗教と生命倫理の関わりの現在の状況を新たに知らしめた。早島氏とデッスィー氏の2名の貴重な提言とともに、本シンポジウムは、今後の日本での仏教と生命倫理に対する新たな知見を、我々に与えるものとなった。

 なお参加人数は本学教員・学生を中心に62名であった。

(RA 釋氏)

研究活動トップへ