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研究活動

UNIT1 国際ワークショップ 「親鸞とヨーロッパ大陸の哲学 Shinran and Continental Philosophy」

ユニット1
開催日時 2012年6月25日(月) 10:00 - 16:30
開催場所 龍谷大学 深草学舎 至心館2Fパドマ大会議室
講師 Presenters & Program 発表者とプログラム:
1. Hirota, “Dwelling in a World of Nearness”
2. Hallisey, “Seeing What Escapes Our Graze: Reading Shinran with Levinas”
- Lunch – 12:50–13:30
3. Davis, “Nishida and Levinas: Ethical Alterity and Religious Difference”
4. Fredericks, “Gadamer and Levinas”
5. Parkes, “Response: Shinran in the Light of Heidegger and Levinas”
参加者 Participants/Discussants 参加者・討論者:
1. Dennis Hirota (龍谷大学文学部教授)
2. Charles Hallisey (Harvard University, U.S.A.)
3. Bret Davis (Loyola University, Maryland, U.S.A.; Kyoto University)
4. James Fredericks (Loyola Marymount University, L.A., U.S.A.)
5. Graham Parkes (University College Cork, Ireland; Nanzan University)
6. Mark Csikszentmihalyi (University of California, Berkeley, U.S.A.)
7. David Matsumoto (Institute of Buddhist Studies, Berkeley, U.S.A.)
8. Eisho Nasu (龍谷大学文学部教授)

 今ワークショップは、クローズドでの開催。

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 発表・討論は全て英語で行われた。

 欧州哲学者(ハイデガー、レヴィナス等)の視点を通して、親鸞思想を再解釈しようという趣旨の元、本ワークショップはクローズドで行われた。

 参加者は終始活発に意見を出し合い、熱心な討論が行われ、大変密度の濃いハイレベルなワークショップとなった。

 親鸞とその思想を、多角的な視野から再認識・再解釈することができ、8名の参加者は新たな知見を得ることが出来た。

(RA 釋氏)

UNIT1 国際シンポジウム 「宗教と生命倫理」

ユニット1
開催日時 2012年5月28日(月) 13:15 - 16:30
開催場所 龍谷大学 大宮学舎 西黌2階 大会議室
講師 1. 「科学、倫理、宗教—キリスト教の場合—」(英語発表・日本語訳あり)
ジェームズ・J・ウォルター (ロヨラ・メリーモント大学教授(カトリック神学、生命倫理)、生命倫理研究所長)
2. 「心おきなく死ねますか —生老病死と終末期医療—」
早島 理 (龍谷大学文学部教授・実践真宗学研究科)
3. 「日本仏教と臓器移植」
ウーゴ・デッスィー (ライプツィヒ大学宗教学講師)
参加者 - モデレーター
廣田デニス (龍谷大学文学部教授、CHSRユニット1リーダー)
- レスポンデント
嵩 満也 (龍谷大学国際文化学部教授、CHSRユニット2)
鍋島直樹 (龍谷大学文学部教授、CHSRセンター長)
那須英勝 (龍谷大学文学部教授、CHSRユニット1)

CHSR ユニット1 & 実践真宗学研究科 共同

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①13:15-14:30

ジェームズ・J・ウォルター氏 (Prof. James J. Walter)

「科学、倫理、宗教:キリスト教の場合 The Intersections Between Science, Ethics and Religion: The Catholic Bioethical Tradition From an Historical Perspective」 

ロヨラ・メリーモント大学教授; カトリック神学、生命倫理、オースティン・アン・オマリー生命倫理研究所長(アメリカ合衆国) Loyola Marymount University, Los Angeles, Professor of Theology, Austin & Ann O'Malley Chair in Bioethics, The Bioethics Institute

 

 今発表では、ローマンカトリックの宗教伝統の視座から、科学・倫理・宗教の交差について論じる。

 最初にこれらの言葉の定義づけをする。

 科学とは、物質界に対するデータ、説明、解釈、評価に関わる。言い換えれば、科学とは 物質界における我々の経験とその固有の法則を意味づけることを意図する。

 倫理とは、我々の道徳上の体験に対する解釈や評価をともなう学問(科学)の一分野である。その論議はまた、価値観と道徳上の義務の体験や、善悪と正誤の判断を、解釈し意味づけようとするために、記述的で説明的でもある。

 宗教とは、例えば「何故我々は少しでも望むべきか?」等、究極の意味に疑問を掲げるものである。

 つまり“交差”により、科学と(神学上の)倫理が互いに関係しあい、いかにある一つのリソースが他によって使用されているのだろうかという、様々な方法なのである。

 第2の発表内容は、5つの違う方法(テーマ、交差)が、カトリック生命倫理学の歴史的な伝統は、特定の話題について科学と、道徳の公式化の判断に関するその解釈を用いていた。以下は、5つの“交差”、テーマに関する要点である。

 

テーマ1: 科学からの情報、説明、解釈、評価は、神学的倫理と道徳的判断に影響を及ぼすべく交差を交わらない。

テーマ2: 科学によって記述され説明される出来事は、神学的・倫理的見解から、再記述・再説明されるか、さらなる意味が与えられる。

テーマ3: 科学と科学的証拠は、神学倫理原則がそれから応用される出来事と状況の説明や分析をもたらす。

テーマ4: 神学倫理は、倫理的真理に対しその主張に重要性を加えるために、科学から権威を借りる。

テーマ5: 倫理学のデータ・解釈・説明は、それら科学と比較的独立している。それゆえ、それらは権威の相関的独立性を持っている。しかしながら、科学のデータ・解釈・説明は、科学自身よりその根拠からは答えきれないような疑問を、神学と倫理学へ掲げることが出来うる。

 

 特にテーマ5が生命倫理学上のトピックに関する今後の論議に、最も大きな可能性を持つということを論じる。 

 

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②14:40-15:40 

早島理氏 

「心おきなく死ねますか — 生老病死と終末期医療 —」

龍谷大学教授・滋賀医科大学名誉教授

 

はじめに

 今発表のテーマ「心おきなく死ねますか」は、終末期医療の問題を手がかりにして、仏教思想の視点から生命倫理を見直すことを意図したものである。また心おきなく死ねるのは、心おきなく生きてきたからであることも付言しておきたい。

 

1. 「生命倫理」を確認する

 「生命倫理」をここでは「主に医学・医療の視点からみたいのちのルール」と考える。この用語は比較的新しい言葉である。我が国で「生命倫理」そのものの基準的定義が提案されたのは2002年慶応大学で開催された医学系大学倫理委員会連絡会議においてである。そこで提案された生命倫理の基準は、

 「生命科学の発展がもたらす可能性」と「人間の尊重・尊厳」とのバランスである。

 とされ、具体的には次の3ヶ条の説明が付加されている。

 1) 生命倫理は共同体・社会の行動規範であり、個々人の倫理観とは異なる。

 2) 生命倫理は社会の中で生成・発展・生長・醸成する。先端医療の発展、時代とともに変化するものである。

 3) 生命倫理は生命科学の進展を阻止・阻害するものではない。社会が理解・許容できる範囲で生命科学を進歩・発展させる。

 ここで注目すべきは、生命倫理は「個々人の倫理観ではなく、共同体・社会の行動規範」であると位置づけられていることである。現代的課題である「脳死臓移植」を例に説明しよう。平成21年「改正脳死臓器移植法」が成立した。その個々の内容の是非を今は問わない。この改正法が上記の「共同体・社会の行動規範」の具体的なあらわれである。医療の治療手段として21世紀の日本社会が脳死者からの臓器移植を「社会の行動規範」として認知したのである。ただし、一人一人が脳死臓器移植をどのように受け止めるかは「個々人の倫理観」もしくは個々人の死生観による。あるいは「いのち」の受け止め方による。

 

2. いのちの受け止め方

 病気や交通事故などで親しい身内を亡くした時、私たちは思わず「なぜ死んだの?」と問う。お医者さんは「ガンで手遅れだったから」、あるいは「交通事故で出血多量だったから」と答えるだろう。お釈迦さんなら「それは生まれてきたからだよ」と応えるに違いない。全く異なる内容であるが両者とも正しい。前者は「生命の機能・構造・作用」からの回答、すなわち生命科学・医学医療が扱う「生命」の視点からの回答である。他方後者は「いのちの存在意義、生きていることの意味」からの回答、すなわち宗教・仏教が語る「いのち」である。さきどの脳死臓器移植で言えば、脳死臓器移植を可能にした移植技術や免疫反応・免疫抑制の説明は前者に連なり、「他者の生死に関わってまで長生きすることの意味は?」の問いかけは後者に基づくものである。

 近現代の医学医療を含む科学(サイエンス)が中世ヨーロッパにおける神学と哲学(広義)の拮抗対立関係を経て成立したことはよく知られている。両者の対立関係は「役割分担」すなわちここでのテーマに限定すれば、「生きることの意味」は神学が、「生命」の構造・機能の説明は「科学」が受け持つことにより乗り越えられ、後者が前者に束縛されることなく発展する礎を開いたと言われる。肝要なことは、生きることの意味を求めることは、現代の医学医療の学問体系には最初から含まれていないことである。したがって、現代の医学医療に関して「共同体・社会の行動規範」を扱う生命倫理は、「生命の機能・構造」に関する社会・共同体の許容範囲を論じることは可能でも、「いきることの意味」を論じることは難しいと言えよう。

 さらに医学・医療を含む科学は本来人間の欲望・願望(長生きしたい、健康でありたい)を充足するためにあり、生命倫理も同じ方向にある。他方、「いきることの意味」を問うことは、その根底に欲望願望の制御抑制をも含むものであり、生老病死すべてをいのちととらえ、人間の欲望・願望を煩悩ととらえる仏教思想こそが個々人の生き方死に方すなわち「生きることの意味」を問うものである。

 

3. 終末期医療と二項包摂

 一昔前まで、自分で食事が取れなくなる、意識がなくなる、あるいは自分で呼吸ができなくなると、残念ではあるがやがて死ぬであろうと本人も周りも受け止めていた。現代では医療が進展し、そのまま生かしておくことになる。穏やかに死ねない時代に変わったのである。死ねない時代の生き方死に方、終末期医療について生命倫理は種々の議論を展開するが、突破口を見い出すのは難しい。

 嘗て、医学医療は「生き抜く力」(最後の最後まで生を生き抜く)に重点をおいていた。緩和医療の考え方の広がりとともに「死の受容」(死を受容し、最後の時をその人らしく生きる)に力点が移動しつつある。あれかこれかの二者択一の考え方である。

 しかし、これからの終末期医療に重要なのは、矛盾対立する二項(生き抜く力と死に逝く力)の否定的選択ではなく、あれでもこれでもの「二項包摂」の思考方法ではないか。例えば有と無という矛盾対立する二項を否定的に一項選択するのではなく、有と無との両者をそのまま成立させている、仏教の「空」の考え方である。あるいは西田幾多郎の言葉を借りれば「絶対矛盾の自己同一」的な思考方法である。

 それは終末期医療における「・・・にもかかわらず生き続けることの意味、重さ」と「・・・にもかかわらず死に逝くことの意味、重さ」の両者をそのまま受け止めるあり方である。

 

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③15:40-16:30 

ウーゴ・デッスィー氏 (Dr. Ugo Dessì) 

「日本仏教と臓器移植:グローバリティー、ローカリティー、境界交渉 Japanese Buddhism and Organ Transplantation: Globality, Locality, and Border Negotiation」

ライプツィヒ大学宗教学講師(ドイツ) Religious Studies, University of Leipzig, Germany

 

 1997年まで日本は、脳死についての法律を持たない数少ない国の一つであった。死亡認定の通説は、心拍停止、呼吸停止と瞳孔散大という伝統的な「三徴候」に基づいていた。そして1997年に初めて、臓器移植は臓器移植に関する法律にしたがって統制されてきたが、2009年に臓器移植法は改正され、年齢を問わず、脳死を一律に人の死として認められてきた。日本の伝統仏教だけではなく、様々な宗教団体は脳死を一律に人の死とすることに抵抗した。脳死についての議論は今でも続いているが、この考えは日本宗教文化に合わないと主張する仏教者が少なくない。今回私が示唆したいのは、脳死臓器移植に関する議論がグローバル社会に密接に関連しているということである。

 第一のポイントはグローバリティー(globality)、つまり地球意識という概念に関係付けられている。

 日本での臓器移植に関する議論は1980代に始まり、国外の臓器移植の技術の発展の結果としても考えられると思う。こうした新しい医学的な知識・技術はますますグローバル化すると共に、日本でもグローバル・スタンダードに同調するべきだというプレッシャーが強くなってきた。このプレッシャーの一つの結果が、臓器移植法なのではないかと私は思っている。

 第二のポイントはローカリティー(locality)、つまり土地意識という概念に関係付けられている。

 グローバリゼーションの一つのダイナミックは価値観の相対化だが、地方レベルでは相対化と文化的帝国主義に対する抗議もよく見られると思う。このような抗議の一例は、脳死の概念に抗議する日本仏教からのものである。日本仏教の主張は、臓器移植のそれ自体が悪いのではなく、問題はそのタイミングであるという。

 日本仏教では、均一化に対する抗議は「三徴候」の伝統に基づき、西洋文化と個人主義とに結び付けられた脳死の概念を疑いの目で見ている。

 第三のポイントは宗教と科学の間の境界交渉(border negotiation)に関係していると考えられる。

 日本の内外であっても、法的な死の定義をめぐる論争は、世界中で見られる宗教サブシステムと科学サブシステムの間の争いである。この論争で、日本仏教は科学サブシステムが「いのち」の尊厳に反対すると主張し、科学が宗教的な次元に介入するかのように見られる。このような介入に対して、日本仏教は伝統的な価値観を主張しようとすることが、一般的なレベルでよく見られるのである。

 


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 以上3名の発表者より、それぞれのフィールドから「宗教」と「生命倫理」に関する提言がなされた。特にアメリカでカトリックの立場から生命倫理の研究を進めているウォルター氏の発表は、我々がなかなか知りうることのできないアメリカでの宗教と生命倫理の関わりの現在の状況を新たに知らしめた。早島氏とデッスィー氏の2名の貴重な提言とともに、本シンポジウムは、今後の日本での仏教と生命倫理に対する新たな知見を、我々に与えるものとなった。

 なお参加人数は本学教員・学生を中心に62名であった。

(RA 釋氏)

"Religion and the World of Lived Experience"

ユニット1
開催日時 2011年2月25日~26日
開催場所 ハーバード大学世界宗教研究所
講師 ユニット1メンバー
本学教員
Dennis HIROTA廣田デニス (真宗学)
Ryugo MATSUI 松居竜五 (比較研究)
Eisho NASU 那須英勝 (真宗学)
他大学教員
Janet GYATSO (ハーバード大学教授、仏教学)
Charles HALLISEY (ハーバード大学教授、仏教学)
Thomas SHEEHAN (スタンフォード大学教授、宗教学)  ほか

Ryukoku University Center for Humanities, Science, and Religion & Harvard University Center for the Study of World Religions

Symposium and Workshop: “Religion and the World of Lived Experience”

February 25-26, 2011, at the Harvard University Center for the Study of World Religions

本国際会議は、共同研究者によるコロキアム形式で開催いたします。

一般の聴講はできませんので、ご了承ください。

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