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研究活動

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「死生観と超越」研究の展望

ユニット2
開催日時 2010年10月14日(木) 16:30~19:00
開催場所 龍谷大学 深草学舎 至心館2階大会議室
講師 澤井義次氏(天理大学教授、宗教学)「天理教の死生観と仏教」
手島勲矢氏(大阪産業大学、ユダヤ学)「ヒゼキアの祈り-死生観のことば-」

龍谷大学仏教文化研究所・共同研究「<仏教>思想の対話的研究」グループ
人間・科学・宗教 ORC「死生観と超越 ──仏教と諸科学の学際的研究」共催

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 天理教の意味世界が仏教の意味世界といかに接点をもつのかに注目しながら、天理教のコスモロジーにおける死生観についてのご考察であった。ハーバード大学でのご研究を経られた先生は、ハーバード大学の宗教学研究の特徴は、生きた信仰に着目するということで、それは言語の共感的世界を重視するものだと仰った。そういった視点を本発表でも大切に、バランス感覚を保ちながら天理教と仏教の意味世界を捉えてみたいということで発表は始まった。

 ご発表は主に天理教の意味世界のご紹介であった。「おふでさき」「みかぐらうた」「おさしづ」の三原点を基礎とした、人間世界が創造された神人和楽の「陽気ぐらし」の世界の実現に向かうことを天理教は掲げる。天理教のコスモロジーの構造は二重になっており、人間にとって親神は「親」であり、人間は「子」になる。人間は一列兄弟であり、意味のある他者(meaning for others)という考えがそこに居住する人間観として存在する。また、人間の本来的在り方を「いんねん」という。「いんねん」は「元のいんねん」と「個人のいんねん」の二つに分けられ、人類が存在する普遍的根拠である「元のいんねん」が基礎となって、個人の因縁を形成する。

 ご発表で特に注目されたのは、天理教の生活に密接に関係する「陽気ぐらし」ということについてである。「陽気ぐらし」とは、「皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めんめん楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。」ともいえ、まわりの人を助け、助けあうという信条をもって生きるということである。人間の本来的存在根拠を基本として「個人のいんねん」が開かれることになる。

 「陽気ぐらし」に収斂される人間存在の本来的あり方と親神の関係としては、親神の守護の世界は、守護の世界であり、親神の守護は「人間身の内」と「世界」において照応し合っている。親神の守護は十の神名によって説き分けられるが、それらは人格神ではなく、本質的に人間の身の内と世界において、同じ物で照応し合っている。そこから「二つ一つ」といった天理教教学の基礎ができあがる。また、「陽気ぐらし」のために心を澄み切らせれば、「元のいんねん」が出現するため、その脈絡でこの世での「ごくらく」が現出するという。

 他にも、天理教の死生観ということで「死」について言及された。天理教では「死」を「出直し」といい、人間の身体は神様からの「かりもの」である。人間の心は個人の所有であるが、一方でたった一つの心から様々な理が出てくると天理教では理解し、心の地平を深化させ、自己中心的な心遣いを心の「ほこり」として清くすることが勧められる。「ほこり」は積もれば、過ちも犯すことになる。心の「ほこり」を清らかにすることは、「生きている」という視点から「生かされている」という心の地平へ心を開く指標を向ける。

 人間は出直しを通して「陽気ぐらし」へ向けての世界の実現に近づくことになる。出直しを繰り返すことによって、第一段階から第四段階のプロセスへと踏み込むことになる。成長するにしたがって、この世界は混沌とした泥水だった状態から、じょじょに形成されてゆくことになる。

 天理教では、生まれ変わりを繰り返して何度もこの世界に戻ってくると考える。仏教では輪廻転生を説き、それは循環的な思想であることから天理教の死生観と類似しているように思われるが、一方で「陽気ぐらし」の実現という考え方は、循環的でありながらこの世での「ごくらく」の実現という意味で、直線的な方向性を把持しているといえる。実際に先生のご尊父は「出直し」を前に控えて、それに向けた準備をなさった。「出直し」が積極的に捉えられているという天理教の死生観の一端をご発表いただいた。

 

 

 手島先生のご発表は、次のような言葉で始まった。「ユダヤ教は死を語らない、死んだら淡白。生まれてから死ぬまでを必死に生きるのがユダヤ教。」この言葉に象徴されるように、ユダヤ教では死よりも生を重視する。というか、死との比較で生を捉えるということをユダヤ教はしないという。一方でユダヤ教には、血なまぐさい歴史がある。多くの人が血を流してきた。先生の基本的な立場は、組織化の原理になる、theorogiaに関心を持ち、テキストの中からリアリティを見いだすというスタンスである。そのため、本研究プロジェクトの「死生観」という言葉を取り上げる際に、ユダヤ教のテキストの中から「死生観らしきものを抽出する」という試みを本ワークショップでご発表いただいた。その際、殉教者をキーワードにヒゼキヤ王の記述に関するテキストをご紹介された。

 ヒゼキヤ王は紀元前700年頃のユダ王国の王で、病に臥し、死を恐れながらも、神の癒しによって15年の寿命を長らえた。この出来事についてのテキストは、イザヤ書と列王紀に詳しく、特にイザヤ書に多い分量がさかれている。これらテキストを読む際に、古いところから新しいところへ行くものか、新しいところから古いところへ下がっていくか、二つの観点がある。後者の視点に立つならば、第二神殿時代の目でヒデキアのテキストを読みこむことで、テキスト誕生の背景が明確になる。第二神殿時代で特徴的なのは、当時の自然観が直接死生観に影響したというものである。これは、自由意志を否定もせず肯定せず、また否定もし肯定もしたパリサイに多数が偏ったことからも伺い知ることができる。パリサイは、運命についても同様に否定と肯定を尊重した一派である。

 先生のお考えは、個々の自然観が死や生を規定するというもので、ヒゼキヤ王をめぐる二つのテキストでは、イザヤ書が難解な内容でありながらも、それはひとつのリアリティをもって発信されうるものということであろうというものであった。

 

 


 新たに得られた知見としては、ご発表後の質疑応答で、テキストに関する各種の宗教ではずいぶんスタンスが異なるということが判明した。手島先生は、「言語とリアリティを同一視することには懐疑的。テキストに特化して考えていくのが、わたしの客観主義」とおっしゃったのに対し、中村信博先生は、テキストにリアリティを見ようとすることに難色を示された。また、釈撤宗先生は、仏教にはカノン、つまりは基準のようなものはなく、仏教には言葉に対する懐疑は常に付きまとうというと述べられた。この違いは、単に机上の議論として説明される以上に、それぞれの宗教者や宗教教団の戒律や規律、生活態度にまで敷衍して考えてゆくこのできる差異であると感じた。(RA本多真)

漢代の祖先祭祀

ユニット3
開催日時 2010年9月30日(木) 17:00~19:00
開催場所 大宮学舎清風館B101教室
講師 龍谷大学 文学部教授 小南一郎先生

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UNIT3研究会(小南一郎先生)
UNIT3(小南一郎先生)2

 本ワークショップでは、「漢代の祖先祭祀」というテーマのもと発表が行われた。発表では、①仏教が中国へと伝来する直前の漢代(前漢・後漢)において、人々が祖先の霊をどのように考え祀っていたのか、②祖先の霊と罪の観念を論じて、祖先の罪がいかなる方法で解消されていくのか、③漢代より三国時代において仏教を受け入れていく中で、人々の中にいかなる思想的基盤があったのか、ということをポイントにしながら漢代における死生観の解明が行われた。

 祖霊祭祀は、中国最古層の文献である殷代甲骨文にも見ることができる。古くより儒教の中で行われ、シャーマニズム的民間信仰などを取り込みながら行われてきた祖霊祭祀は、祖霊が「怒」・「罪」を伴っており、生きている者が「慰」をすることで現世の「禍」を回避していこうという行為であった。そこには、祖霊に対する「恐怖」という形で死の観念が見て取れるという。祖霊の「怒」や「罪」を解除する方法として、前漢時代においては、供物などによる祭祀が中心であったが、後漢時代になると神仙思想などの影響からシャーマニズム的・呪術的儀礼による祭祀が行われるようになっていった。その代表的な祭祀方法としては、宗廟に設置された中心柱を旋回する儀礼があげられる。中心柱を用いた旋回儀礼は、死者の霊魂を地獄から天へと導くための儀礼であったと考えられている。

 しかしながら、次第にこのような祖霊救済の方法が上手くいかないということから、呪術的な方法を超えた宗教的信仰に近い死者の救済というものが求められていく。それがやがて、東晋時代になると一方では道教へとつながり、一方では仏教を受け入れていくということにつながっていったのではないかと考えられると述べられた。

 質疑応答では、発表を踏まえながら活発な議論が行われ、いくつかの論点が明らかとなった。以下に新たな知見としてまとめておく。

 第一に、死者儀礼の契機ともなる死者の怒や罪という概念は、具体的にどのようなものが想定されているのか。生前の怒や罪が死後にまで持ち越されているのか、それとも死というもの自体に対する怒や罪であるのか、死と生にまつわるところの怒や罪が問題とされた。

 第二に、生者に恐怖を惹起する死とはいかなる世界として考えられていたのか。漢代から仏教受容がなされていく過程において、死後の世界観ということが問題とされた。

 第三に、死者の救済と生者の救済ということは密接な関係にある。祭祀儀礼によって罪を解除することで死者が救済されることと、残された生者の救済とはどのような関係であるのかが問題とされた。

 第四に、そもそも民間信仰と神仙術と道教の相違はどこにあるのかということが議論された。(RA北岑大至)

「死生観と超越」研究の展望 ──神道の死生観の現在

仏教<外>の諸宗教、仏教<内>の諸教派、という宗教多元のなかで<仏教>を考える

ユニット2
開催日時 2010年7月13日(火)16:00 ~ 17:30
開催場所 龍谷大学アバンティ響都ホール(会議室)
講師 櫻井治男(皇學館大学教授)

龍谷大学仏教文化研究所・共同研究「<仏教>思想の対話的研究」グループ

人間・科学・宗教 ORC「死生観と超越 ──仏教と諸科学の学際的研究」共催

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櫻井先生の発表は、以下の問題意識のもと、すすめられた。
①「死」の儀式について。地域社会で神葬祭がどのように受容されているか、儀礼的なところを焦点として。
②死生観を語る上での、研究課題。

 発表は全体的に、神葬祭の研究状況と、神葬祭の現場状況を俯瞰したものであった。以下、発表の論点を整理する。
 

 
 「神葬祭」というキーワードをあげられた。神葬祭とは、神道葬祭のことで、「葬」は葬儀を意味し、祭は御霊の祭り、すなわち祖霊を祭るの意である。神葬祭は、日本固有の儀式という議論がある一方、近代国家との関り、明治期に新しくできあがったもの、という議論も存在する。また、神道独自の神葬祭の固有性ということで考えれば、神道の儀式に関する頼れる資料が少ないため、確かめることが難しい。そのため、神葬祭が古いか、新しいかの議論よりも、もっと本質的な議論、学問研究が必要だといえる。一方で、地域の民俗性の問題があることも置き去りにはできない。実態調査が必要だといえる。

 

 それでは、「神道の死生観」の研究の概要はどのようになっていたのだろうか。神道の死生観の研究の派生の源流を探ると、そこには3つの視点がある。1つには、それが神道の研究の流れの中から派生したテーマであるということである。たとえば中世の吉田神道というものがある。近世には京都の吉田家は全国の神主を統括するようになった。その中から吉田家の考え方の中から死生観について研究が進められたという論点がある。2つは、固有信仰の中から解明しようとする視点である。3つには、神葬祭の実践上の研究課題から解明しようとする視点である。これは神社本庁、すなわち宗教法人にのっとったところから社会的な意味も含む葬儀の「かたち」としての葬儀が統率する動きを確認することができる(ガイドラインの制定)。このことについて、神社本庁は「神葬祭のしおり」を刊行した。しかし、まだまだ実際の現場では、議論はここに踏襲されているとはいいがたい。たとえば「遺体のお払い」すなわち、「死者をお払いすることはできのか」や、あるいは「御霊をいつ、どういう状況の中で移すのか」などといった現場からの議論について、今後さらなる研究が必要だといえよう。神社本庁は現在、全国の儀式を統一する方向で動いており、現状の掌握作業のための実態調査が続けられている。
 神社本庁はガイドラインの中で、神葬祭は、厳密にみれば、2つに分けることができるとしてる。1つは神葬祭、2つは祖霊祭である。神葬祭を葬、祖霊祭を祭、と理解することができるが、限定すると、最初の神葬祭(葬)を神葬祭と読んでいる。

 

 死生観の研究としては、安蘇谷正彦『神道の死生観』という本が参考になる。ここでは3つの視点が紹介されている。1つに、人間観および死について、2つに死後観、3つに死の対処法(どのように死に向うか)である。3つめの視点は、すなわち、生にどのように向うかという問いである。ここでは、「死に対する特別な対処法がないということを悟る」という立場を強調することができる。本居宣長の態度を参考にしてもわかるように、彼は死は穢れており避けるべきと説きながらも、自身の葬儀は、死を積極的にとらえた。つまりは、死に直面するとは、アンビバレントな状況をもたらすということがいえるのである。

 

 最後に、これからの研究課題としては、「死生観の確立」、「神葬祭における「祓」の位置づけ」、「各地の神葬祭の慣習調査」のそれぞれの充実が求められている。


 

 

 新たに得られた知見としては、神道の死生観の研究の中で、「死」ということがやや強調されているという印象をもったが、「死」を考えるということは逆説的に「今」の「生」に結びつくという視点が見いだされるという発見であるという。これを先生は(中今観、中今思想)とおっしゃったが、死のことを考えることを介して、「生」や「今」にたどり着くという、神道の死生観に、仏教の死生観にも通じる側面をみることができる。仏教の相即の論理では「生死即涅槃」などと説かれたりする。宗教とは「死」を説きながらも、同時に「生(今)」を機軸とした論理構造にあることに改めて気付かされた。ここにみる神道の仏教の共通性は、東洋思想の特色であるのか、そのところを今後の課題として、考えてゆきたい。(RA 本多真)

親鸞思想とヨーロッパ大陸の哲学

「死生観と超越 ──仏教と諸科学の学際的研究」 公開ワークショップ

ユニット1
開催日時 2010年7月12日(月) 15:00-16:30
開催場所 龍谷大学 大宮学舎 本館2階会議室
講師 廣田デニス教授(龍谷大学教授、真宗学)
チャールズ・ハリシー教授(ハーバード大学神学部教授)
トーマス・シーアン教授(スタンフォード大学教授)

【発表内容】

「親鸞思想とハイデガーの哲学」
"Shinran and Heidegger"
廣田デニス教授 (龍谷大学教授,真宗学)
Prof. Dennis Hirota, Ryukoku University, Department of Shin Buddhist Studies

 

「親鸞思想とレヴィナスの哲学」
"Shinran and Levinas"
チャールズ・ハリシー教授(ハーバード大学神学部教授)
Prof. Charles Hallisey, Senior Lecturer in Buddhist Literatures, Harvard Divinity School


「ハイデガー哲学の観点からのレスポンス」
"A Response from a Heideggerian Perspective"
トーマス・シーアン教授 (スタンフォード大学教授)
Prof. Thomas Sheehan, Department of Religious Studies, Stanford University

※発表は英語ですが、那須英勝教授(真宗学)の日本語翻訳があります

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P1010758.JPGのサムネール画像 P1010769.2.jpg シーハン教授 P1010762.JPG

【成果報告(要約)】「親鸞思想とヨーロッパ大陸の哲学Shinran and Continental Philosophy」というテーマのもと、龍谷大学大宮学舎・本館二階会議室で公開ワークショップが開催された。参加者は、学内教員・大学院生等をはじめ約30名であった。まず、ユニット1リーダーである廣田教授から挨拶と他2名のパネルの簡単な紹介があった。アメリカからの2名の研究者は龍谷大学に約一ヵ月間滞在し、廣田教授と共同研究を行っていた。まずハーバード神学大学院チャールズ・ハリシー教授は、テラバーダ・上座部仏教の研究家で、深く仏教倫理に関心を持ち、数十年前から親鸞思想を研究している。そのために何回も来日し、去年秋の龍谷大学記念行事の国際シンポジウムにも参加した。もう1名はスタンフォード大学宗教学科トーマス・シーアン教授で、キリスト教思想・キリスト教神学、特にカトリック神学の研究家である。Karl Rahnerの神学について研究書も出しているが、世界的にも著名なハイデガー哲学の専門家の一人でもある。数々の論文・翻訳があり、特に2007年出版の「Becoming Heidegger」という書物、また今年出版したハイデガー全集一巻英訳である「Logic: The Question of Truth」は、ハイデガー研究において重要なものである。発表並びに配布使用は全て英語であったが、発表及び質疑応答の翻訳は本学文学部那須教授が行った。発表の順序については、まず龍谷大学・廣田教授による「親鸞思想とハイデガーの哲学- Shinran and Heidegger-」、2番目にハーバード神学大学院・ハリシー教授「親鸞思想とレヴィナスの哲学- Shinran and Levinas-」とした。このレヴィナスという哲学者は、ハイデガーに大きく影響を受けた彼の教え子であったが批判的でもあった。そして3番目にスタンフォード大学・シーアン教授「ハイデガー哲学の観点からのレスポンス‐A Response from a Heideggerian Perspective-」、最後に質疑応答を行った。【廣田教授】このワークショップ全体は親鸞の思想をハイデガーとレヴィナスという二人の現代のヨーロッパ哲学者との比較をして、明らかに新しい視点から光をあててみようとするもので、今回の発表は親鸞の思想研究については、通常浄土教的な見方・救済論的な見方で語られることが多いが、今回は日常生活・日常倫理的生活の中で得られる日常的経験というコンテキストからどのように理解できるかというところを探求する。今発表は親鸞とハイデガーが共通して直面した問題に焦点を絞って、親鸞をいかに読み解いていくかという問題について焦点をあてて考えたい。親鸞思想をこのように読み解いていくのに、二つのアスペクト...セラピューティック・治癒的&コンストラクティブ・建設的があると思います。最初の方は、まず日常的なものを乗り越えて行くという点にあり、二つ目の視点は新しい種類の自覚または認識が現れてくるその問題というその二つのモードについてである。最初に日常的なものを超えて行き、その上で新しい自覚認識というのが起こっていく。まず親鸞とハイデガーが取り上げた中心的な共通課題として、真理に対する問題というものを取り上げていきたいと思います。両者の知的背景や文化的コンテキストは非常に異なっているが、親鸞もハイデガーもスタートするポイントには、人間の自覚・意識に限界があるという深い認識から始まっている。どちらも真理・真実や知識・知恵というのは、外界から独立した主観的な主催者というものによって、コントロールされているという様なものの見方を否定するというところがある。結果として両者ともに純粋な覚醒・真の自覚というのは、束縛されて限定された体験というコンテキストの中でしか生じず、そういう問題に取り組まざる得なくなった。この二人の思想家は、最終的には必然的な二元・主観と客観(人間の知覚・人間の分別心という、主観と客観に分別するというものの見方は、どうしても二元論的になってしまうというが)を超え、分別する人間存在の結果について批判的に見て行くことが出来る事を取り上げていった。その問題を解決するため二人の思想家は、人間存在...人間はそういう分別から離れることが出来ないということをハイデガーも親鸞も言っているが、その主体・客体を実体化することを避けるべきであると言う。ゆえに主体・客体の両側も、実体として見ず、そのダイナミックが働いている動きとして見るべきである。主体の場合は、engagement and letting be関わるという姿勢とほっとくという両方の態度があり、客体の場合は形として現れるという動きと、そして隠れるという動きの二つの動きがあるという考え方は親鸞にもハイデガーにもあり、知るものと知られるものとの関係がthe knowerとknownと二つあるが、両者のダイナミックな関係というのを、親鸞もハイデガーも問題にして取り上げた。親鸞もハイデガーもその著作において、その様なダイナミックな知る者・知られる者の間の問題について取り上げ、今日はその中でも、特にハイデガーの初期の講義の中に出てくるパウロについての分析と、親鸞の歎異抄第二条に出てくる有名な言葉を取り上げる。まず、親鸞の浄土に関する論述についても、ホーリズム全体論的、ホーリスティックというような道でとらえていると私は考える。この親鸞の信心獲得という事について、ホーリスティック・全体論的な見方とは、信心獲得の体験は、それ以前の自己が全く変えられ、新しい自己というのを発見する。一旦その世界に入ると、そこで決定的な変容が起こりそこから後戻りすることはない。このホーリズムに二つあり、まず一つは、論理的・教学的に、信心獲得に入る道を通るという事は、親鸞には無い。これはホ―リズムから考えると当然で、存在のあり方、つまり信心を得ている人間の存在のあり方を説いていることが中心である。こういう姿勢はハイデガー著作中にも見られ、「パウロの手紙」分析から出てくる説明であり、ここでハイデガーはパウロに同じようなところを見ていると指摘する。【ハリシー教授】まず信心とは何かという問題かお話し始めた。人間性を宿す地平、または信心という人間の内なる命、それを私は道徳的自己のゼロ度と言う。これは道徳的生活を可能にするためにするような人間性のベーシックな地平とでも言えるかもわかりません。そのような地平における信心の意義とは、今日は信心というのは機法一体、また仏凡一体という点から見て行く事である。その例として浅原才市の言葉をひかれた。「私の心はあなたの心、あなた心は私の心 私になるのがあなたの心...」、「私が阿弥陀になるのじゃない、阿弥陀のほうからわしになる...」というような浅原才市の言葉があるが、それと機法一体と仏凡一体という見方で、親鸞の信心を考えていく。この倫理性というのは、他との被包括的のnon-subsumptiveにある存在のあり方、そういう状況を記述するものである。ここで試みる、Intentional analysis思考的分析は、このレヴィナスと親鸞の間に自然発生的に生じる共鳴の様なものである。それを親鸞が、『教行信証』で引用している"阿修羅の琴"の例、...阿修羅の持っている琴というのは、聞こうと思えば聞かなくても自然の意に従って音が出すと言われているが、レヴィナスを読みその後親鸞を読んで、その間にどのような共鳴が生じるか試してみたいと思う。レヴィナスという思想家はリトアニア生まれでパリにて亡くなった哲学者である。特に他者との関係や他者への責任関係は、認識や知識に先行するという、第一哲学としての倫理"ethics as first philosophy"というスローガンを唱えた人である。このレヴィナスの言う倫理性というのは、直接善悪に対する知識についてではなくて、倫理性というのは他者との"即時""即"の関係で捉えるべきだと主張した。レヴィナス風に言えば、他力というのには倫理感が見出される。もっと確かなことは、存在のみについての問いかけが見出されるという事である。レヴィナスのこの内なる命の倫理性の思考的認識というのは、5つのポイントがある。①倫理性に生じる不可知性の認識する、②自己と他者の間の不平等性と非対称性の認識、③倫理性の体験の独自性・非一般性の必要性、④責任ある他者との関係は無限との関係であるという事実、⑤ラディカルな受動性の必要性である。これを親鸞の言葉を介すれば、①については歎異抄第二条にある、「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。」ということと比較でき、②については親鸞の説く他力に含まれる倫理性の持つ不平等性ち比較でき、③については「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」という歎異抄後序の言葉と比較できると思う。また④については親鸞の説く摂取不捨の体験における無限なるものの邂逅とその中での不可知性の認識ということが関連すると思う。そして⑤については親鸞の説く他力のラディカルな受動性、つまり親鸞がよく説く道徳的主体としてのラディカルな無能力さの表明というのと対応するのではないかと考えられる。さらに歎異抄五条の「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず」というところと、十六条「わろからんにつけても、いよいよ願力を仰ぎまゐらせば、自然のことわりにて、柔和・忍辱のこころも出でくべし」という例を挙げ、この歎異抄の言葉の倫理性という事についてさらに考えていくことができるのではないか。結論としては、レヴィナスを読みその後親鸞を読むというプロセスに於いて、親鸞というのは仏教倫理の一般的なアウトラインというのをシステムとして受容したが、それに対して自分自身が実行可能であるかという問いを投げかけた。その問いに自らを投入することによって、信心の内的命の地平というのをさらに深く探求することが出来るようになっていったのではないだろうか。それはこのレヴィナスが倫理性の分析で述べているような、この主観的経験の深層構造deep structureというのは、他者への感応・応答性responsivityとしてのそういう構造を、親鸞がそこに見たのではないかということである。【シーアン教授】発表は前半が自身の新しいハイデガー理解についてで、後半は今回の廣田教授の発表への自身のコメントであった。前半において、ハイデガーを読み解く中でパラダイムシフトというのが必要だということを述べた。まずハイデガーの思想の理解は「存在」という事について主に考えられているが、後期のハイデガーを読み解いていく中では、その意味と存在との関係、つまりいつも人間理解との関連によって存在というのを見ていく必要があるのだと述べた。そこで取り上げられたのは"Factum"(作用、成す、行為、作るなどを意味するラテン語)という言葉で、この作用というのは、それ自身は見えないけれども、他を見せる作用のあるものだと述べた。その例として、例えば"眼"はものを見させるけれども、見ているものは、視覚というもの自体は、見ることが出来ないのである。最後にハイデガーの目指したもの、つまりこの見えないけれども、他の存在を見させるものである"Factum"というものを、いかに人間の基本の中で包容していくか、そこに目覚めていくかということが大切であると述べた。そして後半、廣田先生のペーパーに対するレスポンスは、色々質問・問題定義されたが、最後このPhysis とAletheiaという二つのものを挙げられた。これは自然とか、真理というふうによく誤訳されていると言われた。それと親鸞の言う自然、それから真理としての信心・信というものが果たしてお互い調和的に見ていくことが出来るのかということを問題とされたことを特に挙げる。

この度の3名による研究発表によって、ハイデガー&レヴィナスを通し、親鸞の思想を「日常生活で得られる日常的経験」という文脈からどのように理解できるかという、新たな知見を得ることが出来た。 

(RA釋氏)

研究談話会 カトリック的死生観のゆくえ

仏教<外>の諸宗教、仏教<内>の諸教派、という宗教多元のなかで<仏教>を考える

ユニット2
開催日時 2010年6月8日(火)15:00 ~ 16:30
開催場所 龍谷大学(大宮学舎)清風館 B103教室
講師 寺尾 寿芳(南山宗教文化研究所研究員)
参加者 コメンテータ:共同研究 member(杉岡孝紀・高田信良)

龍谷大学仏教文化研究所・共同研究「<仏教>思想の対話的研究」グループ
人間・科学・宗教 ORC「死生観と超越 ──仏教と諸科学の学際的研究」共催


「煉獄」や「聖徒の交わり」など、カトリックの信仰世界でも、他宗教と同じく、死後生を中心とした死生観を構築してきた。しかし、近代化のなかでこのような伝統イメージは事実上もはや力を失っている。他方、われわれは親しい者との永訣において穏やかな旅立ちと将来の再会を期待し、また自らの死への過程においては自己の浄化を願う。こうした不変の願望がいかに伝統的な発想や感性と出会いうるのか。これは、キリスト教の日本における「インカルチュレーション」 (文化内開花)の問題でもある。発表者個人の模索に基づく一理解を提起し、ご批判ご助言を賜りたい。

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 先生はご発表の中で、「生前煉獄説」という体験的世界の具体例を紹介された。カトリックではほとんど語られることがなくなった「煉獄」を、日本発のカトリック的瞑想である「内観瞑想」によって追体験するというものである。
 このような着想に基づいた研究を始められた発端は、現代日本におけるカトリック宣教の「敗北」の気配が濃厚であるといえるからである。背景には二点の問題点がある。一つは「日本のカトリックが歴史と向き合ってこなかった」こと、二つは「日本人の死生観とカトリシズムがリンクしえなかったから」、すなわち「精度の高い受容を理想視」してきた日本のキリスト教界の姿があるといえる。そのような状況下で、死者との再会を満たすものとして、カトリックの世界で唱えられてきた「煉獄説」を取り上げて、「煉獄説」の追体験として「生前煉獄説」を想起する。
 「生前煉獄説」の具体例として、日本のカトリック教界では、藤原直達(1944-)の内観療法が重要な事例としてあげられる。藤原は父親の死後を内観療法で体験したという。これは生前煉獄の体験であるといえるのではないかと先生は位置づける。ちなみに先生は煉獄を「生前において最愛の死者との関係性において受動的に与えられる不可避の苦悩によって、生前から始まる浄化過程である」と述べられておられる。
 ご発表では他にも、藤原が仏教の唯識やユング心理学への思索を展開するなど、思想的発展の余地に富んでいることを述べられたほか、内観療法の実践過程で発生する暴力の潜在性にも言及され、「できるだけ開かれた模索検証の場が象徴的にもふさわしい」と内観療法の問題点についてもおさえられた。その上で、「生前煉獄説」は様々な情動を離れて「悲しむ経験」に寄り添う「穏やかな煉獄」を理想としてシステム化されることが望ましいといえるのではないだろうかと、「穏やかな煉獄」という考え方も示された。

 新たに得られた知見は、カトリック的瞑想としての「内観療法」が「死後の世界」を俯瞰する体験に結びつくという可能性についてである。私はこの言葉を、自己の本来的姿を観察することや、観察されたことを通した内省の意味であるというふうに捉えていたが、この言葉には、今生の生命以上の時間スパンが内包されるようである。内観体験の実例についてまったく無知な者にとっては、死後の世界を「観る」試みからのご指摘は、大変刺激的な内容であった。(RA本多真)

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