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研究活動

国際ワークショップ "The World of Religious Realization" 「宗教的自覚の世界」

日時:20111024(13:15 – 17:00

会場:龍谷大学 大宮学舎 西黌2階 大会議室

 

13:15-14:15

“When Seeing, Simply See: Reflections on Perception,

Meditation and Liberation in Theravada Texts

Mahinda Palihawadana,

Emeritus Professor of Sanskrit, University of Sri Jayewardenepura, Sri Lanka

マヒンダ・パリハワダナ(スリランカ)

「見る時、ただ見る―テーラヴァーダ教典における知覚・禅定・解脱―」

14:20-15:15

“Naturalness: Before and Beyond Self- and Other-Power”

Bret W. Davis,Associate Professor of Philosophy, Loyola University Maryland

ブレット・W・デイビス(米国)、「自然(じねん)―自力・他力の此方と彼方―」

15:20-16:15

“The Four Embracing Means (sangrahavastu):

From their Origin and Development in India to Dōgen’s Appreciation”

Yusho Wakahara, Professor of Buddhist Studies, Ryukoku University

若原雄昭、

「四攝事(布施・愛語・利行・同事)―その起源と展開及び道元の評価―」

16:15-17:00

 “Dwelling in Nearness: On Shinran’s Phenomenology of Religious Life”

Dennis Hirota,Professor of Shin Buddhist Studies, Ryukoku University

廣田デニス、「近さに住す―親鸞における宗教的生の現象学―」

 

discussant

Thomas P. Kasulis,Professor of Comparative Studies, Ohio State University

レスポンス:トーマス・P・カスリス(米国)

 

進行係:那須英勝

moderator:Eisho Nasu, Professor of Shin Buddhist Studies, Ryukoku University

響きあうハイデガー哲学と日本思想

ユニット1
開催日時 2011年5月20日(金)13:15~15:00
開催場所 龍谷大学 本館1階 応接室

講師:Graham Parkes (Guest Professor, Tokyo University Center for Philosophy,Professor, University College Cork, Ireland)                               

タイトル:「西谷啓治とハイデガーにおける自然とテクノロジー」
          "Nishitani and Heidegger on Nature and Technology"

 講師:Joseph O'Leary (Professor, Sophia University)                         

 タイトル:「後期ハイデガーにおける東アジアの響き」
      "Rereading the Later Heidegger with an Ear for East Asian Echoes"
  
講師:Dennis Hirota (Professor, Ryukoku University)

タイトル:「親鸞とハイデガーにおける《住す》ということ」
      "Dwelling in Shinran and Heidegger"
 

親鸞思想とヨーロッパ大陸の哲学

「死生観と超越 ──仏教と諸科学の学際的研究」 公開ワークショップ

ユニット1
開催日時 2010年7月12日(月) 15:00-16:30
開催場所 龍谷大学 大宮学舎 本館2階会議室
講師 廣田デニス教授(龍谷大学教授、真宗学)
チャールズ・ハリシー教授(ハーバード大学神学部教授)
トーマス・シーアン教授(スタンフォード大学教授)

【発表内容】

「親鸞思想とハイデガーの哲学」
"Shinran and Heidegger"
廣田デニス教授 (龍谷大学教授,真宗学)
Prof. Dennis Hirota, Ryukoku University, Department of Shin Buddhist Studies

 

「親鸞思想とレヴィナスの哲学」
"Shinran and Levinas"
チャールズ・ハリシー教授(ハーバード大学神学部教授)
Prof. Charles Hallisey, Senior Lecturer in Buddhist Literatures, Harvard Divinity School


「ハイデガー哲学の観点からのレスポンス」
"A Response from a Heideggerian Perspective"
トーマス・シーアン教授 (スタンフォード大学教授)
Prof. Thomas Sheehan, Department of Religious Studies, Stanford University

※発表は英語ですが、那須英勝教授(真宗学)の日本語翻訳があります

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P1010758.JPGのサムネール画像 P1010769.2.jpg シーハン教授 P1010762.JPG

【成果報告(要約)】「親鸞思想とヨーロッパ大陸の哲学Shinran and Continental Philosophy」というテーマのもと、龍谷大学大宮学舎・本館二階会議室で公開ワークショップが開催された。参加者は、学内教員・大学院生等をはじめ約30名であった。まず、ユニット1リーダーである廣田教授から挨拶と他2名のパネルの簡単な紹介があった。アメリカからの2名の研究者は龍谷大学に約一ヵ月間滞在し、廣田教授と共同研究を行っていた。まずハーバード神学大学院チャールズ・ハリシー教授は、テラバーダ・上座部仏教の研究家で、深く仏教倫理に関心を持ち、数十年前から親鸞思想を研究している。そのために何回も来日し、去年秋の龍谷大学記念行事の国際シンポジウムにも参加した。もう1名はスタンフォード大学宗教学科トーマス・シーアン教授で、キリスト教思想・キリスト教神学、特にカトリック神学の研究家である。Karl Rahnerの神学について研究書も出しているが、世界的にも著名なハイデガー哲学の専門家の一人でもある。数々の論文・翻訳があり、特に2007年出版の「Becoming Heidegger」という書物、また今年出版したハイデガー全集一巻英訳である「Logic: The Question of Truth」は、ハイデガー研究において重要なものである。発表並びに配布使用は全て英語であったが、発表及び質疑応答の翻訳は本学文学部那須教授が行った。発表の順序については、まず龍谷大学・廣田教授による「親鸞思想とハイデガーの哲学- Shinran and Heidegger-」、2番目にハーバード神学大学院・ハリシー教授「親鸞思想とレヴィナスの哲学- Shinran and Levinas-」とした。このレヴィナスという哲学者は、ハイデガーに大きく影響を受けた彼の教え子であったが批判的でもあった。そして3番目にスタンフォード大学・シーアン教授「ハイデガー哲学の観点からのレスポンス‐A Response from a Heideggerian Perspective-」、最後に質疑応答を行った。【廣田教授】このワークショップ全体は親鸞の思想をハイデガーとレヴィナスという二人の現代のヨーロッパ哲学者との比較をして、明らかに新しい視点から光をあててみようとするもので、今回の発表は親鸞の思想研究については、通常浄土教的な見方・救済論的な見方で語られることが多いが、今回は日常生活・日常倫理的生活の中で得られる日常的経験というコンテキストからどのように理解できるかというところを探求する。今発表は親鸞とハイデガーが共通して直面した問題に焦点を絞って、親鸞をいかに読み解いていくかという問題について焦点をあてて考えたい。親鸞思想をこのように読み解いていくのに、二つのアスペクト...セラピューティック・治癒的&コンストラクティブ・建設的があると思います。最初の方は、まず日常的なものを乗り越えて行くという点にあり、二つ目の視点は新しい種類の自覚または認識が現れてくるその問題というその二つのモードについてである。最初に日常的なものを超えて行き、その上で新しい自覚認識というのが起こっていく。まず親鸞とハイデガーが取り上げた中心的な共通課題として、真理に対する問題というものを取り上げていきたいと思います。両者の知的背景や文化的コンテキストは非常に異なっているが、親鸞もハイデガーもスタートするポイントには、人間の自覚・意識に限界があるという深い認識から始まっている。どちらも真理・真実や知識・知恵というのは、外界から独立した主観的な主催者というものによって、コントロールされているという様なものの見方を否定するというところがある。結果として両者ともに純粋な覚醒・真の自覚というのは、束縛されて限定された体験というコンテキストの中でしか生じず、そういう問題に取り組まざる得なくなった。この二人の思想家は、最終的には必然的な二元・主観と客観(人間の知覚・人間の分別心という、主観と客観に分別するというものの見方は、どうしても二元論的になってしまうというが)を超え、分別する人間存在の結果について批判的に見て行くことが出来る事を取り上げていった。その問題を解決するため二人の思想家は、人間存在...人間はそういう分別から離れることが出来ないということをハイデガーも親鸞も言っているが、その主体・客体を実体化することを避けるべきであると言う。ゆえに主体・客体の両側も、実体として見ず、そのダイナミックが働いている動きとして見るべきである。主体の場合は、engagement and letting be関わるという姿勢とほっとくという両方の態度があり、客体の場合は形として現れるという動きと、そして隠れるという動きの二つの動きがあるという考え方は親鸞にもハイデガーにもあり、知るものと知られるものとの関係がthe knowerとknownと二つあるが、両者のダイナミックな関係というのを、親鸞もハイデガーも問題にして取り上げた。親鸞もハイデガーもその著作において、その様なダイナミックな知る者・知られる者の間の問題について取り上げ、今日はその中でも、特にハイデガーの初期の講義の中に出てくるパウロについての分析と、親鸞の歎異抄第二条に出てくる有名な言葉を取り上げる。まず、親鸞の浄土に関する論述についても、ホーリズム全体論的、ホーリスティックというような道でとらえていると私は考える。この親鸞の信心獲得という事について、ホーリスティック・全体論的な見方とは、信心獲得の体験は、それ以前の自己が全く変えられ、新しい自己というのを発見する。一旦その世界に入ると、そこで決定的な変容が起こりそこから後戻りすることはない。このホーリズムに二つあり、まず一つは、論理的・教学的に、信心獲得に入る道を通るという事は、親鸞には無い。これはホ―リズムから考えると当然で、存在のあり方、つまり信心を得ている人間の存在のあり方を説いていることが中心である。こういう姿勢はハイデガー著作中にも見られ、「パウロの手紙」分析から出てくる説明であり、ここでハイデガーはパウロに同じようなところを見ていると指摘する。【ハリシー教授】まず信心とは何かという問題かお話し始めた。人間性を宿す地平、または信心という人間の内なる命、それを私は道徳的自己のゼロ度と言う。これは道徳的生活を可能にするためにするような人間性のベーシックな地平とでも言えるかもわかりません。そのような地平における信心の意義とは、今日は信心というのは機法一体、また仏凡一体という点から見て行く事である。その例として浅原才市の言葉をひかれた。「私の心はあなたの心、あなた心は私の心 私になるのがあなたの心...」、「私が阿弥陀になるのじゃない、阿弥陀のほうからわしになる...」というような浅原才市の言葉があるが、それと機法一体と仏凡一体という見方で、親鸞の信心を考えていく。この倫理性というのは、他との被包括的のnon-subsumptiveにある存在のあり方、そういう状況を記述するものである。ここで試みる、Intentional analysis思考的分析は、このレヴィナスと親鸞の間に自然発生的に生じる共鳴の様なものである。それを親鸞が、『教行信証』で引用している"阿修羅の琴"の例、...阿修羅の持っている琴というのは、聞こうと思えば聞かなくても自然の意に従って音が出すと言われているが、レヴィナスを読みその後親鸞を読んで、その間にどのような共鳴が生じるか試してみたいと思う。レヴィナスという思想家はリトアニア生まれでパリにて亡くなった哲学者である。特に他者との関係や他者への責任関係は、認識や知識に先行するという、第一哲学としての倫理"ethics as first philosophy"というスローガンを唱えた人である。このレヴィナスの言う倫理性というのは、直接善悪に対する知識についてではなくて、倫理性というのは他者との"即時""即"の関係で捉えるべきだと主張した。レヴィナス風に言えば、他力というのには倫理感が見出される。もっと確かなことは、存在のみについての問いかけが見出されるという事である。レヴィナスのこの内なる命の倫理性の思考的認識というのは、5つのポイントがある。①倫理性に生じる不可知性の認識する、②自己と他者の間の不平等性と非対称性の認識、③倫理性の体験の独自性・非一般性の必要性、④責任ある他者との関係は無限との関係であるという事実、⑤ラディカルな受動性の必要性である。これを親鸞の言葉を介すれば、①については歎異抄第二条にある、「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。」ということと比較でき、②については親鸞の説く他力に含まれる倫理性の持つ不平等性ち比較でき、③については「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」という歎異抄後序の言葉と比較できると思う。また④については親鸞の説く摂取不捨の体験における無限なるものの邂逅とその中での不可知性の認識ということが関連すると思う。そして⑤については親鸞の説く他力のラディカルな受動性、つまり親鸞がよく説く道徳的主体としてのラディカルな無能力さの表明というのと対応するのではないかと考えられる。さらに歎異抄五条の「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず」というところと、十六条「わろからんにつけても、いよいよ願力を仰ぎまゐらせば、自然のことわりにて、柔和・忍辱のこころも出でくべし」という例を挙げ、この歎異抄の言葉の倫理性という事についてさらに考えていくことができるのではないか。結論としては、レヴィナスを読みその後親鸞を読むというプロセスに於いて、親鸞というのは仏教倫理の一般的なアウトラインというのをシステムとして受容したが、それに対して自分自身が実行可能であるかという問いを投げかけた。その問いに自らを投入することによって、信心の内的命の地平というのをさらに深く探求することが出来るようになっていったのではないだろうか。それはこのレヴィナスが倫理性の分析で述べているような、この主観的経験の深層構造deep structureというのは、他者への感応・応答性responsivityとしてのそういう構造を、親鸞がそこに見たのではないかということである。【シーアン教授】発表は前半が自身の新しいハイデガー理解についてで、後半は今回の廣田教授の発表への自身のコメントであった。前半において、ハイデガーを読み解く中でパラダイムシフトというのが必要だということを述べた。まずハイデガーの思想の理解は「存在」という事について主に考えられているが、後期のハイデガーを読み解いていく中では、その意味と存在との関係、つまりいつも人間理解との関連によって存在というのを見ていく必要があるのだと述べた。そこで取り上げられたのは"Factum"(作用、成す、行為、作るなどを意味するラテン語)という言葉で、この作用というのは、それ自身は見えないけれども、他を見せる作用のあるものだと述べた。その例として、例えば"眼"はものを見させるけれども、見ているものは、視覚というもの自体は、見ることが出来ないのである。最後にハイデガーの目指したもの、つまりこの見えないけれども、他の存在を見させるものである"Factum"というものを、いかに人間の基本の中で包容していくか、そこに目覚めていくかということが大切であると述べた。そして後半、廣田先生のペーパーに対するレスポンスは、色々質問・問題定義されたが、最後このPhysis とAletheiaという二つのものを挙げられた。これは自然とか、真理というふうによく誤訳されていると言われた。それと親鸞の言う自然、それから真理としての信心・信というものが果たしてお互い調和的に見ていくことが出来るのかということを問題とされたことを特に挙げる。

この度の3名による研究発表によって、ハイデガー&レヴィナスを通し、親鸞の思想を「日常生活で得られる日常的経験」という文脈からどのように理解できるかという、新たな知見を得ることが出来た。 

(RA釋氏)

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