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Research Activities

Unit1, International Workshop: The World of Religious Realization

Unit1
Date October 24, 2011, 13:15-17:00
Place Meeting Room, Main Building, Omiya Campus, Ryukoku University
Presenters Presenters:
1. Mahinda Palihawadana (University of Sri Jayewardenepura [Sri Lanka]), “When Seeing, Simply See: Reflections on Perception, Meditation and Liberation in Theravada Texts”
2. Bret W. Davis (Loyola University), “Naturalness: Before and Beyond Self- and Other-Power”
3. Yusho Wakahara (Ryukoku University), “The Four Embracing Means (sangrahavastu): From their Origin and Development in India to Dōgen’s Appreciation”
4. Dennis Hirota (Ryukoku University),”Dwelling in Nearness: On Shinran’s Phenomenology of Religious Life”
Discussant: Thomas P. Kasulis (Ohio State University)
Moderator: Eisho Nasu (Ryukoku University)

Unit3, Workshop, "Concerning Shinran's concepts of life and death"

Unit3
Date July 14, 2011, 16:45-
Place Meeting Hall on 2nd floor, Seikou Building, Omiya Campus, Ryukoku University
Presenters INOUE Yoshiyuki (associate professor in the faculty of law at Ryukoku University, vice director of CHSR)

Unit2, Workshop, "Issues on Life and Death from Standpoint of Ise Shrine Shinto Priest"

"Issues on Life and Death from Standpoint of Ise Shrine Shinto Priest"

Unit2
Date July 12, 2011, 15:00-16:30
Place The Satellite Room of Ryukoku Graduate School on 6th floor, Campus Plaza Kyoto
Presenters SAKURAI Haruo (Professor, Kogakkan University)

Unit2, Workshop, "Islamic Law (Sharia) on Death and Rituals for Deased"

Unit2
Date July 7, 2011, 16:00-18:30
Place Meeting Hall on 2nd floor, "Padma"-Shishinkan Building, Fukakusa Campus, Ryukoku University
Presenters "Understanding of the Concepet of Six Paramitas in American Jodo Shinshu: The Path beyond Life and Death Pursued by Kyogoku Itsuzo", KIKUCHI Masumi (Research Assistant at the CHSR, Ryukoku University)

"Islamic Law (Sharia) on Death and Rituals for Deased", SHINOHE Junya (Professor, Doshisha University)

 

UNIT3 研究会(第5回)開催のお知らせ

真宗先哲の地獄論―近世・近代を中心に―

Unit3
Date 2011年5月26日(木)
Place 龍谷大学大宮学舎 清風館共同研究室301・302共同研究室
Presenters 高田文英(龍谷大学文学部専任講師・CHSRユニット3共同研究員)
Participant ※共同研究者対象

Unit1, Workshop: Resonances between Heidegger's Philosophy and Japanese Thought

Unit1
Date May 20, 2011, 13:15-15:00
Place Meeting Room, Main Building, Omiya Campus, Ryukoku University
Presenters 1. Graham Parkes (University College Cork [Ireland], Tokyo University Center for Philosophy), “Nishitani and Heidegger on Nature and Technology”
2. Joseph O’Leary (Sophia University), “Rereading the Later Heidegger with an Ear for East Asian Echoes”
3. Dennis Hirota (Ryukoku University), “Dwelling in Shinran and Heidegger”

遺族のセルフヘルプグループ、サポートグループの活動 

Unit4
Date 2011年2月24日(木曜日) 午後3時~午後5時
Place 龍谷大学深草学舎 至心館2階至心館パドマ会議室
Presenters 黒川雅代子
龍谷大学短期大学部准教授 社会福祉学
論文「救急医療における遺族支援のあり方」(龍谷大学論集470号)、
「遺族のセルフヘルプグループの活動」(家族看護4巻2号)など。
遺族会「ミトラ」を設立し、大切な人をなくした分かち合う場を開いている。
ホームページ: http://www.human.ryukoku.ac.jp/~kurokawa/
Participant 共同研究者(学内外)、学内教員

レスポンス
吾勝常行(龍谷大学大学院実践真宗学研究科教授)
鍋島直樹(龍谷大学法学部教授、人間・科学・宗教ORCセンター長)
モデレーター
玉木興慈(龍谷大学短期大学部准教授)

研究目的
UNIT4.仏教と医学・心理学、人間科学を通じた死生観とビハーラ・ケアの研究
第一に、終末期医療や自殺をめぐる死への苦悩を見つめ、仏教、医学、社会福祉学、心理学などの諸科学との協力により、ビハーラ・ケアと死別後のグリーフ・ケアの理論を確立する実践学的研究を行う。第二に、現代における人間の生死の危機とその超越を、聖典や文学作品また心理療法の比喩や物語を通して解明していく。仏典などにみる人間の宗教的救いの物語や事例は、人々にとって人生の羅針盤となり、自己を省みる鑑となるだろう。

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本ワークショップでは、「遺族のセルフヘルプグループ,サポートグループの活動」というテーマのもと発表が行われた。発表者の黒川先生は“大切な家族を亡くした遺族の悲嘆反応”と“セルフヘルプグループ”と二つのセクションに分けて活動の必要性と現状を紹介された。 悲嘆は死別に対する情緒的反応であり,喪失に対する自然で正常な反応である。悲嘆のプロセスに関して、段階モデル、課題モデルと二重過程モデルなどの理論が出されている。悲嘆に伴う心理的,身体的,行動的反応の多くは、正常な反応であるが、しかし、その程度や期間が通常の範囲を超え、精神科的な治療が必要な悲嘆反応「複雑性悲嘆(complicated grief)」も見られる。複雑性悲嘆の特徴については以下の点が挙げられた。

*6ヵ月以上続く強い悲痛感と思慕

*現実と信じられない,喪失を受け止めることが出来ない

*故人に関することへの没頭

*喪失を想起させる事物や場所,状況の回避

*自責と後悔,強い怒り

*日常生活の停滞

*社会的ひきこもり

第二セクションでは、事例をあげ、悲嘆サポート活動の現状と問題を説明なさった。黒川先生は2008年に遺族会「ミトラ」という遺族会を設立し、悲嘆サポートの現場で働かれている。ご自身の経験からサポートの注意点などを説明し、如何にしてより多くの遺族に紹介するかなどの課題を指摘された。

レスポンスでは、吾勝先生と鍋島先生が西洋との比較や仏教の死生観との関係など異なる視点からコメントを述べられた。

<吾勝レスポンス>

 お寺においては伝統的な仏事の中で、例えば年忌、法事の流れの中でグリーフケアがなされてきたけれども、辛さ、痛みを分かち合う人がいなく、グリーフケアが足りない状況からみるとお寺だけではなく遺族会のようなサポートする場は非常に重要である。

 遺族会において安心して話せることが大事であるため、守秘義務の実行など運営上の措置に関心を示した。

<鍋島レスポンス>

黒川先生の研究は、救急救命の看護師時代から大学教員にいたる長い年月の中で、さまざまな死別の悲しみを見つめ、死別悲嘆に寄り添い、悲しみから立ち直る道筋を考えつづけたすばらしい研究である。

1.黒川先生の研究は、現代の日本において、死別の悲しみに沈む人々の現実を見つめている。特に家族などの絆の薄い人たち、一人ひとりの悲しみに寄り添っているところに深く学ぶべきところがある。

2.西洋のグリーフケアの姿勢は、死別悲嘆の症状を分析、評価して対応する。

仏教における慈悲の姿勢は、悲しみに沈む人を分析し、ケアするというよりも、分析を必要としない愛情である。長い年月をかけて、相手のそばにいる。仏壇に手を合わせることを通して、亡き人の思いを受けとり、自らの行くべき道を知る。仏教において、死は終わりではなく、仏になることであり、亡くなった人から受けた愛情を、死別後に深く気づいて、自らが生きていくことである。
 3.黒川先生の最後に提示した四つの点は、悲しみを理解し、それを超える道について指し示したものであり、いろんな角度から学ぶことができる。

黒川先生は、グリーフとは、単に悲嘆だけを意味するものではなく、悲嘆に伴う怒り、罪責感、感謝など言い尽くせない思いをも含んだ言葉であると紹介された。グリーフケアと呼ぶよりも、ビリーブメント・ケア(Bereavement Care 死別悲嘆ケア)と呼ぶ方が国際的であると提言した。多くの人々のさまざまな死別悲嘆に寄り添う際に、ケアする側が燃え尽きてしまわないのだろうかという質問があった。その質問に対して、黒川先生は、「私は死別悲嘆に暮れている人たちから、愛の物語をもらっている。私の力で相手を支えようとするのではない」と応えた。黒川先生は、かけがえのない一人ひとりの悲しみに、深い愛情を感じ取っていることを知り感動した。

最後に、モデレイターの玉木先生は、無縁社会と呼ばれる現代の日本において、黒川先生の研究は、日本社会から必要とされている重要な研究であり、長い歴史のある仏教との架け橋となってほしいと応援のメッセージを送った。  (RA 胡)

華厳における死生観ー華厳諸師の往生を通してー

Unit3
Date 2011年1月14日(金) 17:00~19:00
Place 大宮学舎清風館301共同研究室
Presenters 龍谷大学 経済学部教授 藤丸要先生

本ワークショップは、研究員のみで行います。一般・学生の方は参加できません。

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本ワークショップでは、「華厳における死生観―華厳諸師の往生を通して―」というテーマのもと発表が行われた。華厳教学の特徴は、教学の中心思想である事事無礙法界の法界縁起思想を「一心(唯心)」の上に説くところにある。このことは一心法界(一真法界)と呼ばれる理由ともなるが、その「一心」において語られる「死生観」が如何なるものであるかを本発表では探っていった。発表では、まず一心(唯心)についての基本的な華厳の教学的立場を考察し、その上で華厳諸師の往生を概観しながら、華厳における死生観を窺っていった。

 『華厳経(六十華厳)』巻十「夜摩天宮菩薩説偈品」説示の「唯心偈(如心偈)」(T9・465c-466a)や、『華厳経(六十華厳)』巻二十五「十地品」第六現前地に説示される「三界虚妄 但是一心作」(T9・558c)のように、『華厳経』には諸処に唯心的思想が散説されている。そして、

  統ぶれば唯だ一真法界なり。総じて万有を該ねるは、謂く是れ一心なり。(T45・684b 宗密『注華厳法界観門』)

とあるように、一真法界が全体を貫くテーマとして述べられ、具体的には事法界・理法界・事理無礙法界・事事無礙法界の四種法界として説かれていく。この一真法界―四種法界が華厳教学の中心となる。

 唯心思想を端的に示すものとして諸観法が挙げられるが、その中、最も大事なものとして「三聖円融観」や「十重唯識観」がある。三聖円融観とは、文殊の信仰と智慧、普賢の真理と修行の両者が一体となったところを毘盧遮那と名づけ、これらが互いに円融する道理を一念の心の中に観じていく法である。また、心に約して万教を尽くすとされる十重唯識観とは、すべての法が心(唯識)の現れであるということを十重の次第で説いたもので、一念の心が起こるならば、十重の唯識を具足し、十玄門を具足すると説かれる。どちらの観法もつまるところは、一切存在が一心(唯識)の現れに他ならないことを明かすものでる。

 以上のような華厳教学の基本的立場を押さえつつ、華厳諸師における往生の様子を窺っていった。取り上げられた諸師は、中国から至相大師智厳(602-668)、見真大師法蔵(643-712)、日本から明恵上人高弁(1173-1232)、実相坊円照(1221-1277)、示観房凝然(1240-1321)である。往生の様子については、華厳諸師でありながらも西方浄土を願生し蓮華蔵世界を目指す者、臨終間際に弥勒の文を誦す者、身は律・宗は三論・証は真言・後生は西方浄土の立場を示す者などさまざまで、華厳諸師における臨終の様子が一様ではないことが明かされた。一様でない理由について藤丸先生は次のように指摘される。華厳思想が究極的な世界のあり方を一心(唯心)の面から探求して「生死一如」を明確にしていく営みであったため、真実と衆生との関係性が追及の対象とはされなくなってしまった。そのため迷いの現実に目覚めて悟りへの道を歩むという仏教本来の姿が不明瞭になってしまったのではないか。結果、密教・禅・真言・浄土思想などと結びつきながら実践的側面を補強していくことになったと指摘された。

 発表の最後に藤丸先生は、華厳経における死生観について、華厳経が「一心法界」を明かす教えであるため、死と生という相対的概念に関する明確な態度を見て取ることができないと述べられた。その上で、今後この問題に関しては、新たなアプローチの仕方で研究を進めなければならないと指摘された。

 

【新たに得られた知見】

本研究会において得られた新たな知見として以下の3つを挙げておく。

①華厳経における生死観を探求する場合のアプローチの仕方について、新たな方法論を模索する必要がある。例えば、華厳教学そのものに死生観の回答を求めるのではなく、華厳思想が受用されていく当時の一般的死生観からのアプローチ、また華厳思想とそれにまつわる密教・禅・浄土思想などとの比較研究などが考えられる。

②華厳における生死観について諸師の伝記類を用いる場合、死の様相が飾り立てられて記されているそれら資料を如何に取り扱うべきかが問題となる。

③実践面を補強するために華厳諸師は真言、禅、浄土思想などを取り入れていく。個人個人がそれぞれの信仰で行っていった華厳密教、華厳禅、華厳浄土教などはいかなる思想内容を持っているのかが再確認されなければならない。「一心法界」という縁起の世界観を学びながらも個人的信仰において往生実践行を行っていった、その華厳の立場と個人的信仰との比較考が必要である。

 以上のような研究を通して、華厳思想が生死の苦悩を超える道をどのように明らかにしたのかについて、さらに学びを深めていかなければならない。(RA北岑大至)

「死生観と超越」研究の展望

Unit2
Date 2011年1月13日(木)
Place 大宮学舎西黌2F 大会議室

第1部(15:00~16:30)

a) アルネ・ネスの仏教観―ディープ・エコロジーの提唱者と仏教思想―
   本多真氏(人間・科学・宗教ORC、RA、国際文化学)

b) 明治期における真宗教団成立の諸相
   北岑大至氏(人間・科学・宗教ORC、RA、真宗学)

c) 近代日本における仏教青年運動の国際化―浄土真宗本願寺派の学校を中心に―
   岩田真美氏(龍谷大学非常勤講師、真宗学)

第2部(17:00~18:30)

「肉食と仏教-仏教と神祇信仰との中世的対話-」

講師 リサ・グランバック氏(IBS助教授)

コメンテータ 釋徹宗氏(相愛大学教授)

 


龍谷大学仏教文化研究所・共同研究「<仏教>思想の対話的研究」グループ
人間・科学・宗教 ORC「死生観と超越 ─仏教と諸科学の学際的研究」共催

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 グランバック先生のご発表は、仏教においてそもそも肉食を禁じる「教え」はなく、むしろそれぞれの地域にある土着の考えとの総和や権力者の判断によって、仏教における「肉食」のイメージが出来上がったものだということを、教義と現象の双方の側面をおさえながら文化的・歴史的背景をこぼすことなく見ていかれるという壮大かつ緻密なご発表であった。

 

 1980年代以前の研究では、仏教の教えの中に仏教の肉食に関する「原理」があると考えた。そこで特にテーマ化されたのが「アヒンサ(不殺生)」についてであった。しかし、仏教の教えにそのような「原理」があるとして探求しても、仏教の教えが原理的に肉食を否定するということは判明しなかった。こうした研究はとかく、「原理」に着目した視点であったということであるが、その「原理」というイメージは、現象的な側面への視野を失っていた。また日本では肉食は、「殺す」と「食べる」ことが問題化するようになっていた。こうした基礎研究の中で、グランバック先生の視点は、農耕、狩猟の中から、肉食を考えるという、文化的で歴史的なものであった。


 広く仏教では、「肉食」「性」「酒」は、当然のように「否定の対象」としてそれなりの根拠が与えられている。しかし先生は、文化的、歴史的にみれば、それら三つの否定材料は、教義的根拠とは異なる理由によって生起してきたという。そこで先生は宗教儀礼と宗教的価値に注目された。農耕儀礼において、「肉」の供物、さらに竹などを使った「性(繁殖力)」の儀式、さらにはそれらが終了したあとの「酒」の宴が、三つセットになっているという事例を、ヴェトナムやインドネシアなど東南アジアに現存する農耕文化として写真などを使って紹介された。また日本の諏訪大社での儀礼も、それとの親密性が窺える。日本でも例外なく東南アジアでの儀礼との類似性があるということである。


 また歴史資料にも目を向けられた。もともとは仏教は肉食は否定することがないと仰る先生は、たとえば、上座部仏教では、僧侶も信者も肉を食べるし、中国に入った大乗仏教は、一見すると肉に対する見方が異なったものであるが、実際には中国では、道教や儒教の影響から、基本的に儀礼での肉は否定視されてきた。それが中国の仏教の肉食否定へ影響を及ぼしたことは否めないであろう。
 

 また、多くの学者は『日本書紀』の記述をもとに675年から以来日本ではずっと肉食を否定してきたと考えてきた。つまり、狩猟も魚も禁止されている旨の記述、あるいは期間限定の狩猟禁止が記されているという限定的な記述を『日本書記』を「原理」として、日本の食文化像を構築してきた。しかし、 この説は1990年代以降にはそれなりの反論を受け、現在では歴史的な肉食の実態は多様であったと考えられている。


 他にも、6世紀での中国で行なわれた肉食禁止の例、これは政治的判断として権力者が肉食を反対したことでった。この事例は、宗教の原理的な根拠にまで遡って肉食否定を考えることができないとうことや、日本でも政治的な支配の形として、あたかも仏教では肉食を原理的に否定するという根拠を持ち上げ、肉食否定を一般論として合理化してきたという歴史的資料を紹介された。
 このように肉食と仏教の関係は、異なった角度から見てみると、仏教の教義に原理的な根拠を見出すというアプローチよりも、地域に存在した生活様式が、仏教と融合して規則化したということが明らかになるという、グランバック先生のご発表の内容であった。

 


 新たに得られた知見としては、仏教における肉食について、一般的な考えしか持ち合わせていたなかった私にとって、お聞きすることが新しいことばかりであった。肉食の原理的な探求を宗教教義に求めるということが当然だと思いながらも、他方でその土地、風土に存在した慣習を見落としてはならないことを思い知らされた。単純に考えても、仏教が大乗と上座部に分裂し、双方が多様な文化として世界各国に根付いていることを考えれば、それぞれの地域において宗教が原理的に果たした役割に着目すると同時に、それぞれの地域に従来から現存した文化基盤に着目せざるをえないということになるのは当然だといえる。広い振り幅をもったご発表に、勉強になることが多かった。(RA 本多真)

「死生観と超越」研究の展望

Unit2
Date 2010年12月9日(木)17:00~19:00
Place 深草学舎至心館パドマ大会議室
Presenters 四戸潤弥氏(同志社大学教授、イスラム学)「1939年の宗教団体法成立前後に見る日本における破邪論の系譜としてのイスラーム認識-原正男『日本精神と回教』を手掛かりとしてー」
中村信博氏(同志社女子大学、キリスト教神学)「キリスト教における死・生・復活-葬送儀礼から考える-」

龍谷大学仏教文化研究所・共同研究「<仏教>思想の対話的研究」グループ
人間・科学・宗教 ORC「死生観と超越 ─仏教と諸科学の学際的研究」共催

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*四戸潤弥氏「1939年の宗教団体法成立前後に見る日本における破邪論の系譜としてのイスラーム認識-原正男『日本精神と回教』を手掛かりとしてー」

 

 日本におけるイスラームは現在、混乱した状況に陥っているため、研究者の中からそういった状況を整理する必要性があるとと叫ばれている。そこで、分類の基準が必要となってくるわけであるが、この発表で四戸潤先生は、1939年の宗教団体法成立前後に見られる日本におけるキリスト教系譜の中の破邪論としてイスラームが認識されているという考えを紹介され、日本における今後のイスラム研究の分類法を提案された。

 

 まず、日本のイスラーム研究状況の現状について言及された。日本のイスラーム研究は、「信徒たちの中から学者が育って研究されたことがない」という極めて特異な状況がある。たとえばキリスト教では、学者が育ち、つまりは「学」というものが存在して、その周辺に人が集まるという状況が既に存在した。しかし、イスラームは、信者ではない人の中に信者が入ろうとすると、はじき出されるという形が続いている状況が今なお残っている。ここにはイスラーム教学の翻訳の問題が背景にある。イスラームの字義どおりの日本語訳は極めて少ない。それに増して、預言者の言行録が言葉の学問的位置づけがなされないままに、翻訳がなされているなどの理由があげられる。
 また、日本のイスラームへの関心は、アメリカ絡みになっている。アメリカにおけるイスラムということが基礎にあって、そこから派生した問題を日本で取り扱っている。すなわち、基準なきイスラーム論の状況をここから窺うことができるのである。

 

 続いて発表では、破邪論についての話題へと移行した。破邪論とは、仏教とキリスト教の比較ではなく、極めて政治的なものであるという認識のもと、破邪論の本質は、撲滅論ではなく、防衛的なもの、方便的ななものであり、つまりは、当時開国を迫られたときに出てきた、国の政治的立場であり、教義論とは異なったものであるといえる。江戸末期、回教は破邪論という分野では、まったく論じられてこなかった。その背景には破邪論は儒家が中心であり、儒教の破邪論は、回教ではなく、キリスト教対抗を打ち出されてもので、そこで語られたキリスト教への対抗姿勢は、教義論とはかけ離れた、いわば一種の「恐怖」から出た論じかたの一つであった。そのため、破邪論とは、決してキリスト教を廃絶する動きではなかった。たとえば、安積艮斎はそのような論じかたをしている。
 また、当時、イスラームについては、宗教団体法の前後に、イスラームを公的宗教に認めて欲しいという動きがあった。国会議員にも働きかけがあり、また当時のアジア主義者の間で「大日本回教協会」を作るという話があったが、結果的にイスラームが公的宗教に入ることはなく、「その他」の宗教に入ることとなった。ただ、それが、日本においてイスラームが初めて認知された歴史上の押さえになる。だから、いつ日本がイスラームを知ったかといえば、それはこの時になるといえる。研究者の方向性として、ここをおさえておくと一つの手掛かりとなる。


 

 

 新たに得た知見は、イスラーム研究に造詣のない者としては、日本におけるイスラームの現状がアメリカ中心に推移していることなどは、理解することができた。また、日本でのイスラームの基礎認識が、とかくステレオタイプとしてインプットされているという印象を受けた。というのも、現在のイスラーム文化圏の状況がメディアなどの一方的な情報だけを頼りに知識化しているからである。そこには、イスラームそのものが抱える歴史性や、民俗性、国際性、あるいは教義的な議論は存在せず、よってイスラーム認識そのものが、非常に希薄なものとなっている現状がある。他にも、1939年の宗教団体法でイスラームが「その他」であれ、宗教として宗教団体に入ったことなど、新しく知ることばかりであった。

 

 

 

*中村信博氏(同志社女子大学、キリスト教神学)「キリスト教における死・生・復活-葬送儀礼から考える-」

 

 本ワークショップで中村先生は、日本においてキリスト教がどのように理解されているかということを、葬儀儀礼から捉えなおし、さらには、現場との折り合いのなかで、日本人がどのように宗教を理解しているか、というテーマを掲げられた。どこまでがキリスト教の葬儀なのか、そしてどこまでが日本社会に受け入れられるキリスト教なのか、ということも含めた、問題提起そのものが全体的なテーマとなった。以下、発表の論点をまとめたい。


・キリスト教の実践の現場では葬儀は通過儀礼として理解されてきた。神学的議論と現場で、一般の方が捉える死生観の径庭に注目したとき、キリスト教の死生観は、現場からそう遠くない所にあるのではないかということがいえる。


・キリスト教とはどういう宗教か、その問いによって「限定されるキリスト教」から離れた、臨床的、実践的な側面から、キリスト教の死生観を探ってみたい。特に、現代の日本社会におけるキリスト教というところに本発表での問題意識がある。


・「葬式無用論」、これは消費者の立場からのインパクトの強さを伺い知ることができる。これまで比較的タブー視されてきたことが、表出し、社会的に議論されるようになってきた、ということがいえる。葬儀の形骸化への疑問、世間体のために高すぎる葬儀は必要ないといった議論がある。一方で「葬儀は必要」という立場もある。「葬式無用論」に対して、具体的には、御布施価格の設定には、日本仏教会が反対意見を出した。キリスト教教会における御礼は、教会によって異なるが、日本仏教の影響か、現在はキリスト教でも聖職者に対する御礼は高騰しているという話もあるようである。


・日本人の死生観では、新聞の社会調査で36%の人が、葬儀は「しなくてよい」と答えている。また、多くの方が葬儀は「家族に任せる」と答えている。この連続性を読み取ってみると、日本人の死生観は現在、「親しい家族に迷惑を掛けずに死んでいきたい」というところに移行しつつある。そうなれば、「葬儀は親しい家族に迷惑を掛けると認識されているならば、葬儀とはいったい何だったのか」ということがそれぞれの宗教の現場で考えていくことが必要になってくる。もうひとつ、何らか特定の宗教的形式にしてほしいという質問にしては、結果は半分半分になっている。宗教色が何を意味しているのかわからないが、宗教が遠ざけられているわけではないということが窺える。「あなたには葬儀に際して相談できる聖職者がいますか」という人は、全体の39%。宗教者の存在が社会に浸透してきているということだということも窺える。


・キリスト教の葬儀は本来、教会が主体になって取りおこなわれる。しかし、日本では「葬儀が教会において個人の事柄である」という、極めて日本的な考えに基づいた執行がなされている。また、日本では、前夜式というものがあるが、仏教に習って、お通夜と呼んでいる。他にも、法事やお焼香といったものもある。こうした日本的葬儀の傾向は、プロテスタントよりもカトリックの方が受け入れ体制にあるように思われる。

 

 最後に先生が述べられたのは、グリーフ・ワークとしての葬儀の再構築についてであった。

 

 葬儀がわたしにとっての死生観を考える機会を与えてくれた。悲しみに包まれた人に、わたしがどのように接することができるのか、ということを考えてきた。わたしは、グリーフ・ワーク、グリーフ・ケアから、キリスト教の葬儀を組み立てなおすという試みがあってもよいのではないかと考えている。
 福音書の文学類型を決定づけているのが「復活」というキーテーマ。近代では歴史的イエスばかりに注目が注がれてきたが、最近では「復活」という視点から聖書を読みなおす試みが盛んになっている。そこから読み解くと、人生をもう一度やりなす、イエスの歩みに従って、意識を改めてやりなおすという意味が見えてくる。あくまで意識の問題、内的な問題だといえる。キリスト教の葬儀とは、まさにそのようにあるべきもので、「復活したイエスに愛する家族をゆだねることを通して、近親者は復活したイエスとともに自覚して歩んでいく」ということを大事にしていく仕組み、教育的なプロセスである。

 

 そのうえで先生は実際のケースを紹介された。三十数年間、お世話になっていた教会の牧師が亡くなられた折に、任された葬儀の事例を紹介された。自分がすべきか思い悩んで引き受けた葬儀の儀礼の事例紹介であった。

 


 新たに得た知見としては、新聞調査によって明らかになった「葬儀は親しい家族に迷惑を掛ける」という危惧を持つ人の多さについてである。「迷惑を掛けずに死んでいきたい」とはどういうことか。「私は一人で生きている」と「錯覚」させ、さらには人生の最期、さらにはその先まで一人で「決定」できるという、いわば「想定の範囲に全てを纏めこむ」、そのような文明の威力に、思わず考え込まざるをえなかった。というのも、冷静に考えてば、わたしたちは生まれてからこの方、一人で歩めんできたことなどないのに、あたかもそのように「錯覚」させる原因とは、一体何であるのか。よくよく考えてみれば、わたしたちは、一方ではそのように望んでいるという自分の本心にたどりつくことができる。しかし、それが表出する背後に潜むものに、考えが及ばざるをえない。(RA 本多真)

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