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Research Activities

Unit3, Workshop, "Concerning Shinran's concepts of life and death"

Unit3
Date July 14, 2011, 16:45-
Place Meeting Hall on 2nd floor, Seikou Building, Omiya Campus, Ryukoku University
Presenters INOUE Yoshiyuki (associate professor in the faculty of law at Ryukoku University, vice director of CHSR)

UNIT3 研究会(第5回)開催のお知らせ

真宗先哲の地獄論―近世・近代を中心に―

Unit3
Date 2011年5月26日(木)
Place 龍谷大学大宮学舎 清風館共同研究室301・302共同研究室
Presenters 高田文英(龍谷大学文学部専任講師・CHSRユニット3共同研究員)
Participant ※共同研究者対象

華厳における死生観ー華厳諸師の往生を通してー

Unit3
Date 2011年1月14日(金) 17:00~19:00
Place 大宮学舎清風館301共同研究室
Presenters 龍谷大学 経済学部教授 藤丸要先生

本ワークショップは、研究員のみで行います。一般・学生の方は参加できません。

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本ワークショップでは、「華厳における死生観―華厳諸師の往生を通して―」というテーマのもと発表が行われた。華厳教学の特徴は、教学の中心思想である事事無礙法界の法界縁起思想を「一心(唯心)」の上に説くところにある。このことは一心法界(一真法界)と呼ばれる理由ともなるが、その「一心」において語られる「死生観」が如何なるものであるかを本発表では探っていった。発表では、まず一心(唯心)についての基本的な華厳の教学的立場を考察し、その上で華厳諸師の往生を概観しながら、華厳における死生観を窺っていった。

 『華厳経(六十華厳)』巻十「夜摩天宮菩薩説偈品」説示の「唯心偈(如心偈)」(T9・465c-466a)や、『華厳経(六十華厳)』巻二十五「十地品」第六現前地に説示される「三界虚妄 但是一心作」(T9・558c)のように、『華厳経』には諸処に唯心的思想が散説されている。そして、

  統ぶれば唯だ一真法界なり。総じて万有を該ねるは、謂く是れ一心なり。(T45・684b 宗密『注華厳法界観門』)

とあるように、一真法界が全体を貫くテーマとして述べられ、具体的には事法界・理法界・事理無礙法界・事事無礙法界の四種法界として説かれていく。この一真法界―四種法界が華厳教学の中心となる。

 唯心思想を端的に示すものとして諸観法が挙げられるが、その中、最も大事なものとして「三聖円融観」や「十重唯識観」がある。三聖円融観とは、文殊の信仰と智慧、普賢の真理と修行の両者が一体となったところを毘盧遮那と名づけ、これらが互いに円融する道理を一念の心の中に観じていく法である。また、心に約して万教を尽くすとされる十重唯識観とは、すべての法が心(唯識)の現れであるということを十重の次第で説いたもので、一念の心が起こるならば、十重の唯識を具足し、十玄門を具足すると説かれる。どちらの観法もつまるところは、一切存在が一心(唯識)の現れに他ならないことを明かすものでる。

 以上のような華厳教学の基本的立場を押さえつつ、華厳諸師における往生の様子を窺っていった。取り上げられた諸師は、中国から至相大師智厳(602-668)、見真大師法蔵(643-712)、日本から明恵上人高弁(1173-1232)、実相坊円照(1221-1277)、示観房凝然(1240-1321)である。往生の様子については、華厳諸師でありながらも西方浄土を願生し蓮華蔵世界を目指す者、臨終間際に弥勒の文を誦す者、身は律・宗は三論・証は真言・後生は西方浄土の立場を示す者などさまざまで、華厳諸師における臨終の様子が一様ではないことが明かされた。一様でない理由について藤丸先生は次のように指摘される。華厳思想が究極的な世界のあり方を一心(唯心)の面から探求して「生死一如」を明確にしていく営みであったため、真実と衆生との関係性が追及の対象とはされなくなってしまった。そのため迷いの現実に目覚めて悟りへの道を歩むという仏教本来の姿が不明瞭になってしまったのではないか。結果、密教・禅・真言・浄土思想などと結びつきながら実践的側面を補強していくことになったと指摘された。

 発表の最後に藤丸先生は、華厳経における死生観について、華厳経が「一心法界」を明かす教えであるため、死と生という相対的概念に関する明確な態度を見て取ることができないと述べられた。その上で、今後この問題に関しては、新たなアプローチの仕方で研究を進めなければならないと指摘された。

 

【新たに得られた知見】

本研究会において得られた新たな知見として以下の3つを挙げておく。

①華厳経における生死観を探求する場合のアプローチの仕方について、新たな方法論を模索する必要がある。例えば、華厳教学そのものに死生観の回答を求めるのではなく、華厳思想が受用されていく当時の一般的死生観からのアプローチ、また華厳思想とそれにまつわる密教・禅・浄土思想などとの比較研究などが考えられる。

②華厳における生死観について諸師の伝記類を用いる場合、死の様相が飾り立てられて記されているそれら資料を如何に取り扱うべきかが問題となる。

③実践面を補強するために華厳諸師は真言、禅、浄土思想などを取り入れていく。個人個人がそれぞれの信仰で行っていった華厳密教、華厳禅、華厳浄土教などはいかなる思想内容を持っているのかが再確認されなければならない。「一心法界」という縁起の世界観を学びながらも個人的信仰において往生実践行を行っていった、その華厳の立場と個人的信仰との比較考が必要である。

 以上のような研究を通して、華厳思想が生死の苦悩を超える道をどのように明らかにしたのかについて、さらに学びを深めていかなければならない。(RA北岑大至)

道教の死生観-仏教との関わりから-

Unit3
Date 2010年11月4日(木) 17:00~19:00
Place 大宮学舎清風館301共同研究室
Presenters 龍谷大学 文学部教授 都築晶子先生

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本ワークショップでは、「道教の死生観―仏教徒の関わりから―」というテーマのもと発表が行われた。発表では、中国への仏教流入に伴い付随してきた輪廻転生、因果応報説を主題としながら、それらの説が道教の死生観の中でどのように受容されていったのかが解明された。

 まず初めに、道教に関する基本的な説明が行われた。4世紀頃の東晋時代にまとめられた神仙術のテキストである『抱朴子』に関係する人々の間で、上清派道教と霊宝派道教が誕生していったという。今日我々が道教という場合にはこの二派を指している。上清派も仏教思想に影響されながら諸経典を成立させていくが、特に霊宝派の扱う諸経典は「仏教と道教の混淆物」と呼ばれるように密接な関係が指摘されている。

 初期道教においては、死を経過して仙人へと生まれ変わっていく「尸解」という思想の中で、さらに死後の世界観の変化に伴い人間界と仙界の間に設定された魂を浄化(錬成)する世界(太陰、南宮等)に関わる中で、すなわち救済(「度人」)の道筋が語られていく過程において「死」の概念や業報輪廻説が取り扱われてくるという。仏教と道教における業報輪廻の相違は、仏教においては、あくまでも個人に関わる問題として業報輪廻思想が取り扱われるのに対して、道教においては、中国的な家単位の思想の上で、祖先の救済(「家単位の救済」)ということも含意しながら受容されていったと説明された。

 質疑応答では、発表を踏まえながら活発な議論が行われ、いくつかの論点が明らかとなった。以下に新たな知見としてまとめておく。

第一に、仏教の輪廻思想を受容しながらも道教経典では、「輪廻」、「転生」という言葉があまり登場せず「更生」、「生死」などの言葉で表現される。中国の翻訳・訳語研究の中で「輪廻」という言葉がどのように変遷しているのか問題となった。

第二に、道教が成立していった4世紀頃、仏教界においても『大阿弥陀経』などの諸経典が成立している。「輪廻」「業報」など以外に、道教と仏教がどのように関係していったのか問題とされた。

第三に、人界と仙界の間に設けられた世界において塵や垢を落とし清浄化させることで、仙人への道筋をつけるという「錬成」という考え方がついて問題になった。もし塵や垢を落として清浄になれるのであれば、本来的に人間は清いものとして考えられているのか。人間の本来浄不浄が議論された。

第四に、道教などにみられる「回向」という概念は、自らの善行功徳を個人および祖先に振り向けていくという内容として説かれている。仏教の「回向」の概念とどのように異なるのか問題としてあげられた。

(RA北岑大至)

 

漢代の祖先祭祀

Unit3
Date 2010年9月30日(木) 17:00~19:00
Place 大宮学舎清風館B101教室
Presenters 龍谷大学 文学部教授 小南一郎先生

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UNIT3研究会(小南一郎先生)
UNIT3(小南一郎先生)2

 本ワークショップでは、「漢代の祖先祭祀」というテーマのもと発表が行われた。発表では、①仏教が中国へと伝来する直前の漢代(前漢・後漢)において、人々が祖先の霊をどのように考え祀っていたのか、②祖先の霊と罪の観念を論じて、祖先の罪がいかなる方法で解消されていくのか、③漢代より三国時代において仏教を受け入れていく中で、人々の中にいかなる思想的基盤があったのか、ということをポイントにしながら漢代における死生観の解明が行われた。

 祖霊祭祀は、中国最古層の文献である殷代甲骨文にも見ることができる。古くより儒教の中で行われ、シャーマニズム的民間信仰などを取り込みながら行われてきた祖霊祭祀は、祖霊が「怒」・「罪」を伴っており、生きている者が「慰」をすることで現世の「禍」を回避していこうという行為であった。そこには、祖霊に対する「恐怖」という形で死の観念が見て取れるという。祖霊の「怒」や「罪」を解除する方法として、前漢時代においては、供物などによる祭祀が中心であったが、後漢時代になると神仙思想などの影響からシャーマニズム的・呪術的儀礼による祭祀が行われるようになっていった。その代表的な祭祀方法としては、宗廟に設置された中心柱を旋回する儀礼があげられる。中心柱を用いた旋回儀礼は、死者の霊魂を地獄から天へと導くための儀礼であったと考えられている。

 しかしながら、次第にこのような祖霊救済の方法が上手くいかないということから、呪術的な方法を超えた宗教的信仰に近い死者の救済というものが求められていく。それがやがて、東晋時代になると一方では道教へとつながり、一方では仏教を受け入れていくということにつながっていったのではないかと考えられると述べられた。

 質疑応答では、発表を踏まえながら活発な議論が行われ、いくつかの論点が明らかとなった。以下に新たな知見としてまとめておく。

 第一に、死者儀礼の契機ともなる死者の怒や罪という概念は、具体的にどのようなものが想定されているのか。生前の怒や罪が死後にまで持ち越されているのか、それとも死というもの自体に対する怒や罪であるのか、死と生にまつわるところの怒や罪が問題とされた。

 第二に、生者に恐怖を惹起する死とはいかなる世界として考えられていたのか。漢代から仏教受容がなされていく過程において、死後の世界観ということが問題とされた。

 第三に、死者の救済と生者の救済ということは密接な関係にある。祭祀儀礼によって罪を解除することで死者が救済されることと、残された生者の救済とはどのような関係であるのかが問題とされた。

 第四に、そもそも民間信仰と神仙術と道教の相違はどこにあるのかということが議論された。(RA北岑大至)

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