【提出論文】 悪人の救い-アジャセ王の救いの物語-

龍谷大学 人間・科学・宗教 オープン・リサーチ・センター
国際会議「ディープリスニング:仏教と心理療法の東と西」
(Deep Listening, Deep Hearing: Buddhism and Psychotherapy East & West)

2006年7月29日(土)~2006年8月2日(水)
Oregon Humanities Center (オレゴン・ヒューマニティーズ・センター / オレゴン大学)

【提出論文】
「悪人の救い-アジャセ王の救いの物語-」

鍋島直樹
(龍谷大学法学部教授)



はじめに

いつの時代にも、善と悪が対立し、人類は正義をふりかざして戦い続けてきた。いや、善と善との戦いであったといえるかもしれない。憎しみ、反目、虐待、殺人、戦争、それらは、相手に対する無知や憎しみ、自己中心的な無明から起こっている。善と悪の二元的対立の中で、人間はどのような心の安らぎを求めていけばよいのであろうか。
この論考では、アジャセ王の救いの物語を通して、親鸞における悪人の救いについて明らかにしたい。また、罪を犯したアジャセがどのようにして救われていくかという道筋に注目し、深い傾聴の意義を考えたい。親鸞の浄土教とは、汚濁に満ちた世界で苦しんでいる人間を安らぎの岸へ導く道を指し示したものである。



1.親鸞における悪人の救いへの洞察

日本中世の浄土教の親鸞は、浄土真宗の礎を築いた。親鸞は、凡夫、すなわち、煩悩に満ちている悪人が自らを知り、本願他力によって救われることを強調した。悪人の心の転成について、親鸞は悪人正機と表現した。悪人正機の思想は、仏教の平等思想に基づいている。仏教における平等は、我執が消えた心であり、善悪という相対的な見方を超えたところに見開かれてくる*1  。悪人正機の思想は、悪人に対する慈悲の言葉である。しかしながら、悪を犯し、自他に苦しみをもたらすことを親鸞は決して肯定していない。悪人正機の思想は、自らの悪に気づき、悩み苦しむものを、仏が摂取して決して見捨てないことを示した慈悲の思想である。
親鸞は『教行信証』信巻において、アジャセ王の物語を引用し、阿弥陀仏の本願によって、悪人が救われる道筋を明らかにした。親鸞はまず、救いがたい三種の病、すなわち、この世で最も重く、治しがたく、死にいたる病を説明する。三種類の病とは、以下の三つである。

  • 謗法: 大乗の法を謗るもの。仏教の悪口をいうもの。
  • 五逆: 殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧
  • 一闡提: 断善根(iccahntika)。善の心を断ってしまったもの。

アジャセは、これらの三つの重い病におかされた象徴的な存在として描かれている。仏教では、この三種類の重病を治すには、適切な治療を施す名医と良薬が必要であるとされる。その適切な治療を施す名医にあたるのが、よき友、仏、菩薩であり、良薬にあたるのが、釈尊の慈愛に満ちた月愛三昧と縁起思想に基づく人間理解である。よき師やよき友にであい、真実の仏法を聞くことを通して、少しずつ三種の重病が癒え、ついには苦しみの中で無上菩提心を起こすことができるだろうと、釈尊は説いている。



2.釈尊における悪人の救い−アジャセの場合

それでは、親鸞が注目した「アジャセ王子の罪の物語」をふりかえり、罪を犯した人間の救いについて考えてみよう。アジャセ王の救いの物語には、次のような道筋がある。

  • アジャセによる父の殺害
  • 六人の大臣の助言
  • アジャセとギバとの出遇いー慚愧の意義
  • 天からの声
  • 釈尊とアジャセとの出遇い
  • 仏の月愛三昧
  • 月愛三昧の意味
  • 仏の説法—よき師・よき友との出あい
  • アジャセの不安—罪への執着
  • アジャセへの仏の説法
  • アジャセの回心
  • 真の慚愧
  • アジャセの願心と慚愧
  • 逆縁の意義
  • 深い傾聴の意義

この物語の原典は『涅槃経』に見出され、親鸞は信巻に引用している。


(1) アジャセによる父の殺害

西北インドのマカダ国の王舎城に、アジャセ王子がいた。その性質は乱暴で、貪欲、瞋恚、愚痴に動かされていた。ある時、アジャセ王子は「あなたの父、ビンバシャラ王は、王子であるあなたを殺そうとした」とダイバダッタにそそのかされた。これがもとで、阿闍世王子は父に恨みをもつようになった。ついに阿闍世は父を牢獄に閉じこめ、また父を助けようとした母、イダイケも牢獄に閉じこめた。そして自らは王位についた。父王に対しては、衣服も寝具も食べ物も飲み物も薬も与えるのを禁じた。やがて七日が過ぎ、王の命が尽きた。アジャセ王は牢獄で父が亡くなったのを知り、その罪の深さに気づいて、後悔の念にさいなまれた。父の死後、阿闍世は体じゅうに腫れ物ができ、悪臭を放った。重い病となった。アジャセ王は、身も心も罪の意識にさいなまれ、地獄に堕ちることを恐れた。


(2) 六人の大臣の助言

そこで、六人の大臣が次々にアジャセ王のもとを訪ね、慰めた。六人の大臣の主張は、いずれも、アジャセ王には罪はないというものであった。さらに、六人の大臣とも口をそろえて、「どうかあまり悩まないでください。いつも愁い苦しんでいると、愁いがだんだん増してきますから」とアジャセ王に話した。これら六人の大臣の思想は、六師外道と呼ばれ、仏教における因果応報の道理(Causations)や縁起(interdependence)を否定しているのが特徴である。


(3) アジャセ王とギバの出遇い-慚愧の意義

やがて、アジャセ王は、ブッダの教えを拠り所にしている医師の耆婆と出あった。耆婆はアジャセ王によき師を勧めた。六人の大臣はアジャセ王に、「あなたに罪はない」と助言した。それでもアジャセ王は、自分のしてしまったことをずっと悔やんでいた。ギバがアジャセ王を見舞ったとき、ギバのアジャセ王への助言は、六人の大臣の助言とは正反対であった。ギバは、自分のあやまった行為とその罪を告白したアジャセ王に対して、「善いことです。善いことです。アジャセ王は罪を作りましたが、深く後悔して慚愧の心をいだいておられます。慚愧なきものは、人間でなく畜生です」と心を込めて応えた。ギバはアジャセ王に、自らの過ちを素直に認めることが救いにつながることを示した。それは、「自分本位の罪を慚愧することこそが、人と成る道である」というものである。
ここで大切なことは、耆婆の「王罪をなすといへども、心に重悔を生じて慚愧をいだけり」(信巻 真聖全八五-八六頁。註釈版聖典二七五頁)の言葉である。もう一度、慚愧とは何かを確かめておこう。

  • 慚:自分が二度と罪をつくらない。心に自らの罪を恥じる。人に対して恥じる。
  • 愧:人に罪をつくらせない。人に自らの罪を告白して恥じる。天に対して恥じる。

ここより、罪を犯した時には、自らの罪の現実を無視したり、罪なきものと弁明しても解決にはならない。自己を偽ることで苦しみが増し、自虐的になるだけである。まずは、自らの罪の現実にむきあい、その行為を反省し、その過ちを心から告白して詫びるところから、救いへの道が始まる。


(4) 天からの声

アジャセの父、ビンバシャラ王は、天から語りかけた。その声を聞いたアジャセは気絶して、大地に倒れ、身体の状態は前にも増してひどくなった。

そのとき、天から声が聞こえた。「アジャセ王よ。よいか。そなたの悪い行いの罪は決して免れることはできないものと知れ。アジャセ王よ。速やかに仏のもとにいくがよい。仏の他には誰もあなたを救うことができない。私は今そなたを哀れむからこそ、このように勧め導くのである。」
アジャセ王はこの声を聞いて、身も心もおののき、あたかも芭蕉の樹のように全身を揺らせた。アジャセ王は空を仰いでこういった。「天におられるのはどなたですか。姿は見えずに声だけが聞こえます。」
すると、天の声はこう応えた。「王よ、わたしはそなたの父、ビンバシャラである。そなたは今耆婆の言ったことに従うがよい。六人の大臣の誤った言葉に従ってはならない。」
その声を聞き終わって、アジャセ王は悶え苦しみ、気絶して、大地に倒れた。できものは体中に増えて広がり、以前にもまして、汚れてひどい悪臭を放った。

注目すべきことは、アジャセの病の瘡が急激に増える場面が、二度あることである。一度目は、母イダイケの看病を受けたときである。アジャセは牢獄にいる父の死を知り、体中にできものができた。アジャセの母、イダイケは牢獄から解放されるとすぐに、アジャセの身体にさまざまな薬をぬって手当てした。母は裁くことなしに息子の看病をした。そのとき、アジャセの瘡も悪臭も増すばかりだった。二度目は、天からの父の声がアジャセに聞こえてきたとき、アジャセの腫れ物は広がり、さらなる悪臭を放った。
それではなぜ、アジャセの瘡と悪臭が二度も増え広がったのだろうか。このアジャセ王の熱、病の瘡と悪臭は、彼の父と母への悪い行いに対する自責の念や後悔を象徴している。アジャセは両親が自分を憎んでいると思いこんでいた。しかしアジャセは両親を傷つけた後、本当は両親が自分を愛してくれていたことに気づいた。父が亡くなるという悲しい事件の後で、アジャセは両親の優しさと慈愛に気がついたのである。それで、アジャセの瘡が増えた。アジャセが自らの罪にそのまま気づけば気づくほど、より一層、彼の瘡や悪臭がひどくなったのである。


(5) ブッダとアジャセの出あい

医師のギバの勧めで、アジャセはブッダを訪ねた。苦しむアジャセに出あったブッダは、こう語った。

善男子、わがいふところのごとし、阿闍世王の為に涅槃に入らず。われ『為』といふは一切凡夫、『阿闍世王』とはあまねくおよび一切五逆を造るものなり。・・・・『阿闍世』とはすなはちこれ煩悩等を具足せるものなり。

(信巻 真聖全二・八七頁。註釈版聖典二七七頁)

善良なものよ。私は、阿闍世のために、涅槃に入らない。...『ために』とは凡夫全てのため、『アジャセ』とは広く全ての五逆罪を犯すもののことである。仏はさまざまな世間のことに染められないから、はかりしれない長い間涅槃に入らない。

この「アジャセのために涅槃に入らない」という言葉は、深い悩みをもつ者に対してこそ、仏の慈悲は注がれるということを意味する。「苦しむあなたが救われるまでは、私もいっしょだよ。」そうブッダはいったのである。身も心も地獄に堕ちている者を、仏は心配した。阿闍世はその仏の慈悲にふれて、自らの罪を罪として自覚できた。
アジャセのためにとはまた、あらゆる煩悩を抱えた凡夫すべてのために、仏は悟りに入らないという意味でもある。すべての人間は罪悪を犯して生きている。したがって、「アジャセのために涅槃に入らない」という言葉は、人間が根源的に罪なる存在であり、仏は普遍的にすべての苦悩の存在を悟りに導くということを示している。しかも注目すべきことは、ブッダがアジャセ王に対して、「善良なものよ」と呼びかけ、苦しむものを大切に思っているところである。


(6) ブッダの月愛三昧(がつあいざんまい)

それからブッダは、アジャセのために月愛三昧に入り、入り終わって、大いなる光明を放った。その光は清浄ですがすがしく、アジャセ王の下にとどいてその身を照らすと、全身のできものはたちまちに癒えた。
アジャセ王は耆婆にこう尋ねた。「なぜ仏はこのような私にあってくださり、心配してくださるのですか」
耆婆はアジャセ王にこう答えた。「たとえば、あるものに七人の子供がいたとしましょう。その七人のうちで、一人が病気になれば、親の心は平等でないわけはありませんが、その病気の子にとくに心配するようなものです。王様、如来もまたその通りです。あらゆる衆生を平等に見ておられますが、罪あるものはとくに心をかけてくださるのです。」
このブッダの言葉が示すように、ひとえに罪悪深重の凡夫を救うために仏は存在する。


(7) 月愛三昧の意味

月愛三昧はすべてのものに喜びをもたらす。

王すなはち問うていはまく、〈なんらをか名づけて月愛三昧とする〉と。耆婆答へていはまく、〈たとへば月の光よく一切の優鉢羅華をして開敷し鮮明ならしむるがごとし。月愛三昧もまたまたかくのごとし。よく衆生をして善心開敷せしむ。このゆゑに名づけて月愛三昧とす。大王、たとへば月の光よく一切、路を行く人の心に歓喜を生ぜしむるがごとし。月愛三昧もまたまたかくのごとし。よく涅槃道を修習せんものの心に歓喜を生ぜしむ。このゆゑにまた月愛三昧と名づく。{乃至}諸善のなかの王なり。甘露味とす。一切衆生の愛楽するところなり。このゆゑにまた月愛三昧と名づく〉と。

(信巻 真聖全二・八八頁。註釈版聖典二七九-二八〇頁)

耆婆はアジャセ王に語った。「たとえば月の光は、すべての青い蓮の花を鮮やかに咲かせます。ちょうどその月の光のように、月愛三昧は、衆生に善の心をおこさせます。王さま、たとえば月の光が、すべての路行く人の心に喜びをおこさせます。ちょうどその月光のように、月愛三昧はさとりへの道を修めるものの心に喜びを起こさせます。月愛三昧は、最も優れた善であり、甘露の味わいであり、すべての衆生が願い求めるものです。」

月愛三昧とは、釈尊が超自然的な力によって、アジャセの病を癒したことを意味しているのではない。仏の月愛三昧には、二つの意味が込められている。第一には、月の輝きが闇を残したままで、人々を優しく照らすように、月愛三昧は、とがめることない、無条件の受容を示している。黙ってそこにいることは、苦しみの中にある人にとってとても救いに満ちたものとなる。「何かをするのではなくて、そこにいること」、それが月愛三昧の真意である。人は言うにいえない苦しみにあえいでいるとき、自分自身をふりかえることのできるよき聞き手が必要である。第二には、仏の月愛三昧は、世間的な言葉を交えることなく静かに瞑想することの重要性を示している。説明のいらない共感は、苦しんでいる人の求めるものである。なぜなら人は深い悲しみを言葉で表現することができないからである。禅や念仏のように、静かな瞑想を通して、はじめて人は真実の自己にそのまま気づくことができるようになる。換言すれば、阿弥陀仏の限りない慈悲の光にいだかれて、人は自らの愚かさを知るのである。


(8) ブッダの説法—よき師とよき友との出あい

釈尊は、阿闍世を救うための月愛三昧を終えた後、大衆に対して、こう説いた。

一切衆生、阿耨多羅三藐三菩提に近づく因縁のためには、善友を先とするにはしかず。なにをもつてのゆゑに、阿闍世王、もし耆婆の語に随順せずは、来月の七日に必定して命終して阿鼻獄に堕せん。このゆゑに日に近づきにたり、善友にしくことなし

(信巻 真聖全二・八九頁。註釈版聖典二八〇頁)

犯した罪は、自分独りで、受け容れることはむずかしい。どうしても自分の罪を言い逃れたようとしたり、自分を弁護しつづけたりするからである。罪を罪としてありのままに受け容れることができるのは、罪を感じている自分を、まるごと受け容れてくれる存在に出あったときである。
この物語で明らかになったことは、救いの成就が、善き友と善き師との出遇いによってもたらされるということである。阿闍世と耆婆と釈尊との、相互の親密な人間関係が育まれることによって、阿闍世は自分自身を見つめなおすことができた。縁起的な人間関係、それが心の絆を育むのである。


(9) アジャセの不安

アジャセは耆婆に自分の不安を告白した。「耆婆よ。わたしはそなたと同じ象に乗りたいと思う。わたしが無間地獄へ堕ちるようになっても、どうかつかまえて、わたしを堕ちないようにしてくれ。『道を得た人は地獄へ堕ちない』と聞いたからである。」

釈尊の月愛三昧はアジャセのできものを癒した。しかしながら、阿闍世は罪の深刻さに苦しみ、地獄に堕ちることを恐れていた。アジャセは、恐ろしい罪の意識にうちのめされて、自らの犯した罪の報いに執着していた。


(10) ブッダのアジャセへの説法

a. 悪しき行いにつながる因と縁

この後につづくブッダのアジャセへの長い説法は、多義的である。このブッダの説法の一段は、経文解釈が難しく、今まで充分に解釈されていない。ただはっきりいえることは、釈尊が、さとりの視点から罪悪に対する解決への道を、この一段で示していることである。
まず、ブッダはアジャセの不安を聞いて、次のように説いた。「どうしてきっと地獄に堕ちてしまうというのか」。すなわち、そんなに自分で思い込んで、未来を決めつけてしまう必要はないと、ブッダはいうのである。
つづいてブッダは、罪がさまざまな因と縁によって生まれてくることをアジャセに語りはじめる。つまり、罪の生まれる原因を、アジャセ個人の見方からのみに限定するのではなく、他のさまざまな角度から見ることができることをブッダは話すのである。とくに次のブッダの言葉は注目すべき言葉である。

もしなんぢ父を殺してまさに罪あるべくは、われら諸仏また罪ましますべし。

(信巻 真聖全二・八九頁。註釈版聖典二八二頁)

アジャセの父であるビンバシャラ王は、仏たちに供養して功徳を積んでいたから王位につくことができた。もし仏がたがそのビンバシャラの供養を受けなかったら、あなたの父は王位に就かなかったであろう。そなたが父を殺し、それが罪となるのなら、わたしブッダを含めて、仏がたにもまた罪があるはずである。

この「もし汝、父を殺してまさに罪あるべくは、われら諸仏もまた罪ましますべし」というブッダの言葉は、まさしく罪を犯したものに対する慈悲の言葉である。アジャセの罪がアジャセ一人の罪ではないと仏は宣言したのである。仏の慈悲とは、相手の罪を自己の罪として自己同一化しようとする心である。慈悲とは苦しみを抜き、安らぎを与える姿勢である。このような仏の慈悲は、「あなたの苦しみは私の苦しみである」という言葉にもよくあらわれている。自他不二の姿勢は、自我を超えて他者に共感する姿勢である。どんな過ちを犯した人間でも、それを一緒に抱えようとする愛情を感じたとき、その罪の中から、清らかな善心がわきおこってくる。大切なことは、最後まで過ちを犯した人間のそばによりそい、その罪のつらさを分かちあうことである。ブッダは殺人犯の味方をしているのではない。個人に全ての罪を着せても、殺人事件の解決とはならない。人を殺してしまう人間の悲しさを自分の事として受けとめる。その大切さをブッダは知っているのである。
ブッダは、アジャセが父殺しの罪の重さを痛感し、地獄に堕ちることに心縛られて、孤立していることを知った。そこでブッダは、一つの罪がさまざまな因と縁が重なって生じていることをアジャセに伝えた。アジャセが自ら犯した罪のせいで、自分を極端に卑下して、未来が全く見えなくなっていたからである。罪を責め、その報いを説くだけでは、悪人が罪を抱えてどう生きていきればよいのかを示したことにはならない。そこでブッダは、今後、アジャセ自身がどう生きていけばよいのかをともに考えようとしたのである。


b. 縁起という広い視座の提示

最後の段落でのブッダの言葉の重要な点は、空思想を通して、罪を永遠に固定的なものとして捉えなかったことである。犯した罪の報いを固定不変に捉えないブッダの思想は、全く新しい視野をアジャセに与えたのである。
一つは、空と縁起という幅広い視点を与えたことである。アジャセが父を殺したのは現実であり、人の命を奪った重い罪である。しかし仏教における空や縁起の視点から見れば、一つの悪行はさまざまな因と縁が結合して生じたことであり、アジャセ一人の罪ではない。ブッダは罪に対するより広い見方を、アジャセに新しく指し示した。
親鸞は、仏教に基づきながら、罪の本質を「かたちなき罪」として解釈している。

罪業もとよりかたちなし 妄想顛倒のなせるなり 心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき

(『正像末和讃』(一〇七) 真聖全二・五二八頁。註釈版聖典六一九頁)

罪業は、もともと固定的に実体として形をなしているのではない。罪は、偏った虚妄の分別でものを捉え、真実とは全く逆の見方に執着することによって生じてくる。心の本質は清らかであるにもかかわらず、この世界には真実の人はいない。と、親鸞はここで明かしている。罪が形なきものであり、妄想や曲解によって生みだされるということは、『涅槃経』における釈尊の説法と共通する内容を有しているといえるだろう。
二つには、罪に縛られず、未来を信じることである。アジャセが父を殺した重い罪は消えることはない。しかし同時に、罪の報いを固定的に捉えないので、過去に犯した罪によって、未来のすべてが決定されはしない。もちろん、人を傷つけた悲しみが深ければ深いほど、人はその罪に縛られ、その罪の重さを背負って生きることになる。罪を忘れないことは重要である。しかし、罪を知っているからこそ、その罪の悲しさを超えて、真実の生き方を見出していくことはもっともっと重要である。
ふりかえってみれば、自らが善人であるという自負が一つの主観となり、律法主義や権威主義を生みだしやすい。また反対に、自らが悪であるという負い目が一つの執着となって、極端に自己を卑下し、暗黒の世界に閉じこもりがちとなる。罪悪報復の強調は、結果を押しつける運命論のような見方に陥る危険性がある。だからこそ、罪を引き受けつつ、過去のすべてに縛られず、悪の心から自由になる未来を切り開いていってほしい。そのことをブッダは伝えたかったのである。


(11) アジャセの回心

ついに、ブッダの慈悲にみちた言葉がアジャセの心にしみわたり、アジャセは罪の自覚の中で、清らかな信心が生まれた。アジャセは深い感謝の気持ちで満たされた。


無根の信“Shinjin that has no root in my heart”(CWS vol.1 p. 137)

阿闍世「私は今はじめて、強い悪臭を放つ伊蘭の種から、芳しい香りを放つ栴檀の樹が生えるのを見ました。伊蘭の種とは、私のことであり、栴檀の樹とは私の心におこった無根の信です。」

(伊蘭の種)

強い悪臭を放つ伊蘭樹(Eranda)の種。<無根>
父を殺した罪を犯した阿闍世自身。ひとひらの真実もない自己。
仏を信じたことのない自己。
(Eranda: Self-awareness of Ajātaśatru's crime)

(栴檀の樹)

かぐわしい香りを放つ栴檀(Candara)の樹。<信>
阿闍世の心に起こった清らかな信心。釈尊の願心が満ち満ちた心。
あらゆる人々の煩悩をたち、悪心を破りたいという阿闍世の願心。
(Candara: Shinjin filled with Buddha's infinite compassion)


こうしてアジャセは、罪を慚愧し、仏の慈悲に抱かれて、悪の心を清らかな信心に転じ、さらには、人々の悪心を破りたいという願いをおこした。


(12) 真の慚愧

慚愧そのものは自己を知ること、真摯に生きることそのものである。罪は罪として自分自身が感得していかなければならない。すなわち、慚愧は、救いのための通過儀礼でもなければ、罪を滅するためのものでもなく、一生涯、一貫してつづき次第に深まっていく。
それについては、次のような阿闍世の告白にも明らかである。阿闍世がついに、無根の信をおこした後において、こう語っている。

われ悪知識に遇うて、三世の罪を造作せり。いま仏前において悔ゆ。願わくは後にまた造ることなからん。

(信巻 真聖全二・九三-九四頁。註釈版聖典二八九頁)

無根の信(Shinjin that no root in Ajātaśatru's heart)が生じるということは、阿闍世が仏の前で、謙虚に懺悔することであった。したがって、阿闍世の慚愧は、父を死なせてしまった直後に始まり、ついに仏の願いが阿闍世に満ち満ちて、阿闍世の心に、無根の信が開かれた後も、一貫してつづき、次第に深まっていくのである。 親鸞は慚愧について、こう記している。

無慚無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ

(『正像末和讃』(九七) 真聖全二・五二七頁。註釈版聖典六一七頁)

まことの慚愧に至っては、慚愧すらもできない自分自身であると、親鸞は述べている*2  。しかも同時に、その慚愧も無き自己に、本願の名号の功徳が満ち満ちているというのである。真の慚愧は、自らの意志や計らいによって、自覚されたものではない。他力廻向の本願が偽りをかかえた自己を貫くときに、おのずともたらされるのが、真の慚愧である*3  


(13) アジャセの願心と慚愧

それでは、阿闍世が無根の信をおこしたとき、その心の変化を示す最も重要な言葉は何であっただろうか。阿闍世の信心、それは、願いとなってあらわれた。

世尊、もしわれあきらかによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、われつねに阿鼻地獄にありて、無量劫のうちにもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もつて苦とせず。

(信巻 真聖全九二頁。註釈版聖典二八七頁)

あれほど自分の罪過を悔い、地獄に堕ちることを恐れていた阿闍世が、自ら地獄に堕ちることになっても、人々の悪心を破るために生きたいと宣言した。罪への執着、地獄の恐れが、このまま地獄に堕ちることをも恐れない、愛他の願心に転成したのである。この阿闍世の願いは、彼の深い悲しみを通過して生まれ、深い懺悔とともにある心である。その慚愧は阿闍世の、釈尊に捧げた詩のなかにあらわれている。

われ悪知識に遇うて、三世の罪を造作せり。いま仏前にして悔ゆ。願はくは後にまた造ることなからん。願はくはもろもろの衆生、等しくことごとく菩提心を発せしめん。心を繋けてつねに、十方一切仏を思念せん。また願はくはもろもろの衆生、永くもろもろの煩悩を破し、了々に仏性を見ること、なほ妙徳のごとくして等しからん

(信巻 真聖全二・九三-九四頁。註釈版聖典二八九頁)

阿闍世の素直な慚愧と、これからは自ら罪を作らず、あらゆる人々の煩悩の苦しみを除いてあげたいという願心とが、ともに心の底からわきおこっている。

深い罪を抱えた自分を見捨てない仏の慈悲に出会うとき、そこには深い感謝とともに、悪の心を破って、信心に生きるという方向性が確かに見出されてくる。古き自己に死して、新しき自己に誕生すること、あるいは、我執に縛られた孤独な殻を破って、如来の子に誕生すること、これが信心である。
仏は義務感や責任感でアジャセを心配しているのではない。喜んでアジャセのために身を捧げている。なぜならどんな罪を犯した人にも、その人の未来があることを釈尊は信じているからである。もしもすべてが運命によって過去から定まっているならば、この世において善いことをするのも、悪いこともするのもすべて運命のせいとなり、運命の他に何も存在しないことになる。過去において未来が決定されているならば、人が、罪を懺悔して、これからは真の優しさをもって人々に尽くしてゆきたいという希望や努力もなくなってしまうだろう。したがって運命論を含め、縁起を否定する思想は、人に生きる力を与えられない。
ブッダがアジャセに説いた縁起説とは、どんなこともさまざまな因と縁によって生じ、相互に関係しあいながら、たえず変化していく思想である。縁起に基づく生き方は、人間一人一人の努力と自由を尊重する。縁起の信念は、あらゆるものがつながっているという共感をうみだす。すなわち、「自分は一人ぼっちではない。愛され願われて生きている」、そういう慈悲を実感するとき、人は苦しさを自分の未来のエネルギーに転化できる。人間一人一人の未来を罪で押しつぶしてしまってはならない。罪が深ければ深いほど、その悲しさを知り、その罪を転じてまことの清らかな慈悲を育んでいくことができるからである。
親鸞は、罪とさとりの関係について、次のように記されている。

無碍光の利益より
威徳広大の信をえて
かならず煩悩のこほりとけ
すなはち菩提のみづとなる

罪障功徳の体となる
こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし
さはりおほきに徳おほし

(『高僧和讃』曇鸞讃(三九)(四〇) 真聖全五〇五-五〇六頁。註釈版聖典五八五頁)

仏の願いの暖かさによって、罪がさとりに転じられるというのは、春が来て暖かくなれば、氷がとけてすべて水になるようなものである。氷と水は姿は異なっているが、その本質は全く同じであるように、煩悩と菩提とはその体が全く同一であることを、煩悩即菩提という。煩悩は氷のように硬い執着のかたまりである。しかし。あたかも氷が溶ければ、すべて水になるように、仏の光の恵みを受け、仏の願いの温もりが自己に満ち満ちたとき、固い煩悩の氷がとけて、そのまますべてさとりの清らかな水に変わっていく。そう親鸞は明かしている。すなわち、仏の本願が迷える自己と一体になって、まよいの罪がさとりの善に転じられるのである。
したがってどのような状況にあっても、信じること、希望をもつことが、人々に大きな力を与える。人間は相互につながっている。だからこそ、人間は互いの罪を共に見つめ、その罪を超えて、自他に安らぎをもたらす未来を築いていく必要があるだろう。



(14) 逆縁の意義

人生の逆縁は、まことの慈愛にめざめる重要な要因となりうることがある。親鸞はこの王舎城悲劇に登場する阿闍世・頻婆沙羅・韋提希・耆婆たちを「権仮の仁」、すなわち、仮に姿を変えて王子・王・王妃・医師などになった菩薩であると見ている*4  。親鸞は王舎城悲劇が凡夫を真実に誘引するために説かれたと見なしたのである。あらゆる人間にとって、悲劇は、限りない慈悲と寛容さをうみだす機縁となることがある。逆境のなかで咲いた花が、最も可憐で美しいように、苦しみや悲しみが、真実の優しさや慈愛を見出す縁となってくることがあるだろう。
人は関係の中にある存在である。暴力は虚しさから起こる。どのような状況においても、仏のように、誰かに願われているとき、人は反省し、前進することができる。救いは突然の奇蹟ではない。深い罪からの救いには長い時間を要する。黙って寄り添う愛情、仏の真実の願いに貫かれて、人は罪に気づき、更正することができるだろう。



(15) 深い傾聴の意義

「深い傾聴・聴聞(Deep Listening and hearing)」とは、釈尊の月愛三昧や、縁起の自覚から生まれる慈悲に共通する。「聴(listening)」とは、親鸞によれば、「ユリテキク」と説明されるように、煩悩をかかえた自己が全分に仏に受け入れられ、そのまま抱かれて、真実の声を聞くことを意味する。また、「聞(hearing)」とは、慈悲の最上表現としての仏の本願に対するめざめであるとともに、自己の深い闇に対するめざめを意味している*5  。「聞」とは信心の体験である。いいかえれば、「聞」とは、静かな瞑想のなかで、苦しみのなかにある自己が、逆に仏から呼びかけられる経験を意味している。この深い聴聞(Deep listening and hearing)を通して、苦しみにとらわれていた自己が、清らかな仏の光のなかで、ありのままの自己を知り、あらゆるものと相互に関係しあっていることを知る。そしてついには、迷える自己がさまざまな執着から解放された自由でやわらかな人格へと転換されていく。心理療法においても、「深い傾聴」は、聞き手となる自己、セラピストが、相手、クライエントの苦悩をそばで黙って傾聴し、偏りのない分析・評価をおこなう姿勢である。そして同時に、継続的な人間関係を通して、やがて自己と相手との相互理解が確立され、クライエントに思いがけない創造的な変容がもたらされる意義を有している。
深い傾聴・聴聞とは、審判せずにそばによりそう愛情である。それは、ある種の自己概念にとらわれている状態をもっとやわらかくすることめざし、現実の苦しみのなかで、流動的(フレキシブル)に生きるように支援するものといえるだろう。



結び

アジャセは、どのようにして自らの悪にめざめていったのであろうか。罪悪の自覚を通して、アジャセに、どのような倫理的な姿勢が開かれたであろうか。
アジャセの救いの過程をふりかえってみると、思いやりに満ちた三つの心の絆が、アジャセに自分がいかに愚かであったかを気づかせた。
第一には、アジャセは父親の死後、両親であるビンバシャラとイダイケが自分を愛していたことを知った。その結果、アジャセは自らの愚かな行為を痛切に感じた。第二には、ギバがアジャセに寄り添い、「罪を感じて生きることが人として生きる道である」と、ギバが釈尊に示した。そのおかげで、アジャセは正直に自らの罪に向き合うことができるようになった。第三には、ブッダのアジャセの未来を最後まで信じて接した。特に、仏の月愛三昧は、闇の中で、アジャセに自らの愚かさを気づかせた。そのブッダの寛容さが、罪に苦しむ人間を救い、その人を、あらゆるものに対する思いやりをもった人間へと成長させる原動力となっている。仏に願われ、信心に生きるということは、自己自身の世界を大きく広げることである。仏の慈悲、他力との出あいは、それまでにもっていた束縛や執着から自由にさせる力となり、自己のありのままを素直に受け入れて、明日に向かって生きる力強さとなる。
罪を抱えた自己が仏に願われていることを知ったとき、アジャセに大いなる安らぎがおとずれた。こうして私を決して見捨てないという仏の願いに突き動かされて、アジャセは己自身の罪悪に向き合い、自らの愚かさを知った。アジャセは自らの愚かさを知ったからこそ、謙虚に努力して、自己と他者の幸せを願って生きていこうとしたのである。信心とは、愚かさの目覚めから生まれた、あらゆるものへの愛である。アジャセの父と母、ギバとブッダの愛と優しさを受けたことが、翻って、あらゆるものへの愛と優しさに広がっていった。長い時の経過とともに、慈しみに満ちた仏の本願がアジャセの悪心に浸透していった。そしてついに、彼の汚れた心は、自らへの真摯な慚愧とすべてのものの幸せを願う心に転じられたのである。
悪人正機の思想は、仏教の基本となるわけへだてない平等思想から育まれた。それは人間の悪に対する深い反省と愛の思想である。仏の智慧と慈悲の光に照らされて、自己をありのまま知るとき、自己の善心の中にさえ、悪心が潜んでいることを知る。体裁のいい自己の内面にある偽りを知るのである。人が善悪のとらわれを超えたとき、あらゆる人間は結びついていることを知る。
仏教における人間成長は、自己が他に支えられていることを知るという包容力で示される。他者の優しさを受けいれることが、感謝の気持ちをわきおこすことになり、その感謝はやがて生きとし生けるものへの思いやりのある行為に転じられていくのである。
人は関係の中にある存在である。暴力は虚しさから起こる。どのような状況においても、仏のように、誰かに願われているとき、人は反省し、前進することができる。救いは突然の奇蹟ではない。深い罪からの救いには長い時間を要する。黙って寄り添う愛情、仏の真実の願いに貫かれて、人は罪に気づき、更正することができるだろう。



  • 経典には次のように説かれている。「善悪のはからいを捨てて、目覚めている人には、何も恐れることがない」(ダンマパダ三九偈、中村元訳『真理の言葉』十五頁。岩波文庫)。「安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世とを知り、生と死とを超越した人、このような人がまさにその故に<道の人>と呼ばれる」(スッタニパータ五二〇 中村元訳『ブッダのことば』一一〇頁。岩波文庫)。このように善悪を超越したさとりとは、世俗的な善悪の判断や個人的な打算から自由になることである。
  • 村上速水は、親鸞における罪悪観について、こう論じている。「親鸞が悪といい、愚というのは、このような深い反省に立っての言葉である。絶対なる仏の大悲を仰ぐ身になったとき、あまりにもその慈悲心から遠ざかっている自分の姿に、聖人はとても善人とはいえなかった。ただ『罪深く障り多きもの』でしかなかったのである。まことに慚愧の至りである。否、ほんとうに慚愧しているかといえば、それすらもできない身であった。故に『無慚無愧のこの身』というのである。」(村上速水著『親鸞教義の誤解と理解』五八頁。永田文昌堂)
  • 張偉(Chan Way)の「阿闍世の慚愧と悲喜の涙(上)」という論がある。張偉は、仏教における真の慚愧について、世間の慚愧と比べて、こう記している。「仏教的な意味での慚愧と世間の慚愧の異なりも、ここにあります。世間的な意味での慚愧は、人間のまなざしを前にして行う人間の計らいの作業です。そのような慚愧は、いかに誠意を込めようとしても、偽りやごまかしや功利的な打算が混ざることを免れない。それは時に高次の慚愧に導かれる機縁になることもありますが、そこにとどまるならば、仏教の救済に届くことはないと思います。・・・・阿闍世のレベルの慚愧は、私たちが自己の意思によって実現するのではないのです。ここで私はあらためて無慚無愧という言葉にこめられた親鸞聖人の気持ちを思い知るのです。無慚無愧とは、慚愧しよう、慚愧しない、慚愧できる、慚愧できないという人間の計らいが働いているかぎり、そういう自己意志が破られないかぎり、本当の慚愧にはならないことを意味のではないでしょうか。阿闍世の慚愧は、罪を縁として生じるものです。その罪を救済の機縁にするのは、如来の力です。その慚愧は、人間の意志によるものではなく、大いなる慈悲から賜ったものだとも言えましょう。(張偉「阿闍世の慚愧と悲喜の涙(上)」一二頁。自照同人一九号 二〇〇三年十一・十二月号)
  • 親鸞は、王舎城悲劇に登場する阿闍世をはじめとする人々が、あらゆる愚かな凡夫を真実に導き、罪を犯した人間を誘引するために存在したと理解している。「浄土の縁、熟して、調達(提婆達多)、闍王(阿闍世王)をして逆害を興ぜしめ、濁世の機を憫れんで、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまへり。つらつらかれを思ひ、静かにこれを念ずるに、達多・闍世、博く仁慈を施し、弥陀・釈迦、深く素懐を顕せり。・・・・・聖権の化益、あまねく一切凡愚を利せんがため、広大の心行、ただ逆悪闡提を引せんと欲してなり。」(『浄土文類聚鈔』真聖全二・四四六頁。釈版聖典483-4頁)
  • The Collected Works of Shinran, Vol.2, p.189