【記録】中村久子女史の生涯と思想

龍谷大学 人間・科学・宗教 オープン・リサーチ・センター
公開講座(UNIT 2主催)

「中村久子女史の生涯と思想」

三島多聞
中村久子女史顕彰会代表・真宗大谷派真蓮寺住職)

2006年6月15日(木) 10:45~12:15
龍谷大学 深草学舎 3号館301教室



三島多聞:

ただ今ご紹介頂きました、飛騨の高山から参りました三島多聞と申します。しばらくの間、中村久子さんをご紹介させて頂きたいと思います。
中村久子さんは生きておれば、百六歳ぐらいです。きんさん・ぎんさんよりも二つほど年下です。三歳の終わりから四歳頭にかけて、両手両足を切断しました。ざっと百年前に両手両足を失った。しかし元気に朗らかに生きた方であります。しかし、ただそれだけならば、立派な人がいるもんだなあということでことは終わるわけですけれども、聞き捨てならないことを言われた。それは、「両手両足がないから救われたのです」という言葉をききました。この言葉は、「そうか」という具合に聞き捨てるわけには参りません。「両手両足がないことがありがたいのだ」、「私が作ったのは両手両足のないこの体であります」このことはわかるかなあ、わかりません。
そもそも、実際問題、本来的いのちに反する。私たち子供ができる時に、男の子が欲しいとか、女の子が欲しいといっておりますが、いよいよになれば男でも女でもどちらでもいい。五体満足であればどちらでもいい。このことが、人間的・本来的願いです。その様なことからいうと、「いのち」を求めている。「いのち」を求めているということは、満足を求めて生きていることである。「いのち」を求めるということは、満足を求めていることであるにも関わらず、満足でない両手両足のない体をなぜ満足として喜べたのか。このことがまず初めに引っかかるところでございます。
ここでは、分かりやすいように、物質的満足と精神的満足に分けて考えてみます。精神的満足ということが、重大なポイントです。昨年は3万4千人の方が五体満足であるにも関わらず自ら亡くなった。自死された。ということは、心の満足に出会っていないということです。五体満足揃っていなくても生きていけるのですが。逆に心の満足に出会うとき、たとえ五体満足でなくても、生きていけるという意味で、我々は精神的満足とします。そして、その精神的満足がどういうことであるのか、そして精神的満足はどうして得られるのか、このことを中村久子さんは我々に教えてくれている。このように思うわけです。
日本語はおもしろいですね。日本語でいい場合もあるが、漢字でいい場合もある。例えば、「命日」という言葉があります。「命日」というのは中国語です。随ってパッと心が通じ合いません。今日は「命日だ」、「誰の?」、「おじいちゃんの命日」、「ああ、私には関係ない」とこれで終わりです。しかし、この「命日」ということを大和言葉でいいますと、「今日我が家は命の日だ」と申せば、「誰の?」とは聞き返されません。ここに心を開くものがいる。
あるいは「謹賀新年」という言葉があります。あれは、見る言葉、書き言葉でありまして、言う言葉ではありません。しかし我々は、年賀状に「謹賀新年」と書きます。あれは完全に中国語です。「謹んで新年を賀す」。副詞・動詞・目的語となっています。だから我々は正月に会ったときに「明けましておめでとう」とはいいますが、「謹賀新年」とはいいません。ましてや「賀春」なんていいませんね。
そのように中国語と日本語とごちゃまぜに使っているわけですが、「いのち」という場合、中国語で表現すると分かりやすいかもしれません。「寿命」という言葉がある。むろん中国では「生命」でありますが、インドの仏典を翻訳しておる最中に見つけられた言葉が「寿命」です。仏陀釈尊は「いのち」といっても、物質的なことを「いのち」といっているわけではない。喜びを生きた人、それを「寿命」という。「命」とは物質的いのちです。「寿」とは、精神的いのちです。「命」とは、短命、長命という言葉がありますね。長い短いによって限定されるいのち、限りあるいのちです。それが「命」です。しかし、よろこぶ、ことぶきの「寿」は、長寿とかはいいますが、短寿とはいいません。つまり、長い短いに限定されないいのちです。いわゆる無限のいのち、無量寿です。「寿命」に生きるということは、父母からもらった限りあるいのちに、限りなき喜びを生きる。このことが寿命に生きるということです。しかるに我々は、寿命だから仕方がないとか、寿命には勝てないだとかいうように、仕方のないこととして寿命という「いのち」を認識している。このように寿命の「いのち」を認識している限り、永久に「いのち」ということの意味は分からないでしょう。漢字というものは、そのような大事なところを我々に教えてくれているのです。
では、中村久子さんは寿命の「寿」、限りなきよろこびに出会ったが故に、父母からもらった肉体的「いのち」を、「生命」をよろこぶことができた。「寿」という精神的満足に出会わないと、五体満足揃っていても面白くない。寿命を生きるというのは、とてつもなく重大なポイントであります。我々はその意味において、この父母からもらった「いのち」は、限りなきよろこびを求めているし、限りなきいのちは我々によろこべる「いのち」としてそのはたらきをしている。「寿」と「命」とは、お互いに求め合っている。私たちはそれに素直になるべきである。
さて、中村久子さんの七十二年の生涯の全体を通して、一言で言うならば、また久子さんの言葉でいうならば、「宿業の身ということを思い知ったとき、心底お念仏を申させて頂けるんです」ということになります。それは今の我々に分かりやすい言葉で翻訳していいますと、「現実を引き受けたところにしか真実はない」ということに尽きる。その真実ということを、別の言葉で置き換えていうと「現実を引き受けたところにしか幸せはありません」ということになります。また、「現実を引き受けたところにしか本当の悲しみや、苦しみは分かりません」ということになります。我々も悲しんだり、苦しんだり、喜んだりするのですが、久子さんの眼からみれば、それはご都合で喜んだり、悲しんだり、苦しんだりしているのではないですか、それは真実ではありませんと、言われると思います。
この「真実」という言葉を「人生」という言葉で置き換えてみると、「現実を引き受けたところにしか人生はありません」ということになります。このようになってくると、手があるとか、ないとかいうような問題ではなくて、我々の生き方の問題として中村久子さんが存在するといいたいわけです。これから、手がないのによくやったねということをお話しするつもりは毛頭ありません。このことは、中村久子さんの手があるとかないとかの問題ではありません。しかし、手足がないということによって、このような問題は惹起されたといってもいいかと思います。
さて、久子さんは脱疽という病気になって、今でもこれは不治の病です。しもやけのような状態になり、医者に飛んでいったらこれは脱疽という病気だといわれました。不治の病です。放っておけば、体中に毒がまわって死ぬというわけです。どうしたらよいかというと、切断するしかないのです。なら切ったら治るかというと、お医者さんは、三歳や四歳の子供の両手両足を切って命の保障はしませんといわれました。命の保障がされないのならば、また痛い思いをさせて両手両足をなくすくらいならば、短い命を親の懐でいさせてやろうと思われたのでしょう。その時は手術せずに帰られた。だからといってすぐに治るわけではない。
明治三十三、四年あたりに、当時は新興宗教ですが、天理教ができた。その神様は効くというからみてもらった。そうしたら、お前さんは前世に女を騙したので、罰が娘にきたといわれた。いまどきその様なことは言わないとは思いますが、その当時はそのようなものです。その時に久子さんの父親は、その言葉にコロッとはまってしまったそうです。父親は、毎日のように久子さんをおんぶして、天理教の教会の方へ足を運んだのだそうです。その時久子さんは、なぜ父親が私に謝るのか分からなかった。後に久子さんが大きくなったとき、そのことを母親から聞いて、なんて愚かなことなんだと思ったそうであります。そうこうするうちに、手首から手がポロリと取れ落ちそうになってしまっていた。これは大変だと病院にいって、急いで両手両足を切る。病院へいって切るのですが、一回で切ったわけではない。一センチ二センチを剃刀で切る。しかし、すぐに転移する。そしてそれを昔の医者はどのように処置するかというと、ハサミでもってチョキンチョキンと紫色になったところを切るわけです。久子さんは何度もベッドから飛び上がったそうです。一回切るだけで命の保障はしないというのに、大根の輪切りのようにして切っていき、よく命があったものだと思いますね。
ひと夏かかって、うっすらと皮が張る。しかし、飛騨高山は寒いので、せっかく張った皮にあかぎれのひびがはいる。その上から包帯を巻いて、血を止めるわけですが、またその包帯が引っ付いて痛い思いをするわけです。このようなことを何年も何年も繰り返し、また医者へと通うわけであります。
久子さんが、七歳の時に父親が亡くなる。ほとほと疲れたのでしょう。そして残ったのは山ほどの借金と、両手両足のない久子だけでした。生きるためには再婚です。再婚するにしても一番手がかかるのは久子です。しかし、やはり再婚した手前、面倒をみるとき久子は後回しになる。「ご飯を食べさせてやるからね、待っとってね」と言われ一時間も二時間も待たされることがある。そうなるとお腹がすくので、お椀のところに自ら口を持っていって前かがみに食べていた。ちょうどその食べている様子を犬猫といわれた。心無い大人の言葉が子供の心に突き刺さる。両手を使わずにご飯を食べるのは、犬や猫や畜生だといわれた。それを聞いて、久子はカチンと頭にきたというのです。自分がなぜ学校に行けないのかというと、両手両足が生えてこないから学校へ行けない。生えてきたら学校へと行けるんじゃなかろうか。父親は、泣けば両手両足は生えないから、決して泣くなよとなだめていた。それを聞いて久子は幼心に、いつか両手両足が生えると思い、また願っていたのでしょう。
久子は、大人から、ご飯を食べるときに両手を使わずに我が身の口をお椀へと持っていくのは、犬や猫みたいじゃないかといわれた時に、初めて自分に両手両足がないことを思い知った。久子さんは強い言葉でそのように言っています。それが十歳の時です。私は犬や猫ではない。人間なんだ。人間になろう。人間になってやるという心を持ったのです。
私は、中村久子という人の肉体的誕生は明治三十年で、精神的な中村久子が誕生するのは、いわゆる人間としての中村久子の誕生は十歳のその時にあったと思っています。

久子は、両腕に包帯を巻き、箸を差し挟めば食事ができるのではないだろうかと思ったのでしょう。それを毎日、毎日練習に練習を重ねた。だいたい三日や十日もすればできないことだということが分かります。そうなったらかんしゃくを起こすでしょう。彼女もこんなことはやっていられないと思ったのでしょう。そこで終わっていればでくの坊でした。しかし、でくの坊でない証拠に彼女は、お箸を挟んでご飯を食べることに一年の月日をかけたのです。彼女は絶対に諦めなった。「私は犬ではない。猫でもない。ましてや畜生ではない。人間なんだ。」という思いを沸き発させたのでしょう。弥陀の四十八願の第一願に、「たとひわれ仏を得たらんに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」とあります。現代の言葉で翻訳しますと、お念仏の世界には、地獄・餓鬼・畜生というものは成り立ちません、成り立たせませんということです。この心が、彼女の心になったということです。
この彼女をみて一番喜んだのは、母親だったそうです。身の回りのことは一人でやってもらいたいと思っていた矢先、自分一人で食事をするようになったのですから、母親はしめたと思ったのでしょう。この子は何か言えば必ずやり遂げるに違いない。それから母親は鬼になったということです。掃除せよ、炊事せよ、編み物せよといわれ、できないといっても絶対に許されなかったということでした。両手両足ない人間に、こんなにひどいことをしたもんだという具合に、これでも実の親かと彼女は思ったそうです。今の時代にだと、中村久子さんのお母さんは幼児虐待で逮捕されているかもしれません。両手両足ない子供に、縫い物せよとか、編み物せよとか無理難題をいうのです。しかし彼女は、泣き泣きそれを一つずつマスターしていく。
掃除するときの箒とか打ち払いとか、また包丁とかは自らの腋に挟む。そして包丁は体の体重を利用して、前後に揺れながら切りました。字を書くにも、筆を口に咥えて書く。また頬と腕で筆を挟み文字を書く。ボールペンのような堅いものは、両腕で挟む。つまり、三種類の書き方をマスターしていたのです。
縫い物といったら普通は布を前にして横に縫っていくわけですが、久子さんは、布を両手で挟んで、口で針を操り縦に縫っていきました。編み物もそうです。編み棒を口に咥えて編んでいく。ですから、彼女にとって十五センチ程の棒が彼女の指だったわけです。そのようなことを一つ一つマスターしていったのです。
しかし、彼女は三つのことだけができませんでした。できなかったことの一つは、万歳です。万歳をしても腕の先は頭の横です。またもう一つは、頭を結うことができない。そしてもう一つできないことは、後ろ手で帯を結ぶことができない。つまり、背中を掻いたりすることができない。要するに、手の届かないことはできないというわけです。このこと以外は全部やった。
このような負けず嫌いの久子さんですが、負けず嫌いの彼女だからこそ、また差別を受けていた子供のころから人の言動には敏感であったからこそ、大きな問題にぶつかるのです。久子さんは言っています。「私は差別した人、憎い人を心の中で何人殺したかわかりません。」さて、ここで大きな問題がでてくるのです。人様から犬や猫や畜生といわれれば抵抗のしようもあるが、今度は自分の心の中から自分に対してそれでは犬猫畜生以下。これには手も足もでません。
彼女の目的は十歳の時、「私は犬猫ではないのだ」ということが彼女の生きる力となり、動機でありました。したがってそれを捨てることはできません。しかるに、嫉妬で炎のような心になっているということ自体が犬猫以下であります。このことを何とかして突破しなければ、今まで生きてきた甲斐がない。さて、何とかしようとするわけだが、普通だったら忘れようとこうなる。また思い出さないようにしようとする。しかしどうですか、忘れようとして忘れられることは、さほど大きな問題ではなかったということでしょう。なんとか突破しようと彼女は考えるのです。
その時にヘレン・ケラーさんに会ったのです。彼女の歳でいうと四十二歳。彼女はその時に、ある婦人会に行ってある人物に出会う。穏やかな顔をしておられた、自分はどうして穏やかにいられるのかということが願いでありましたから、その時に『歎異抄』に出遇った。中村久子さんはいろいろな新興宗教に出会っています。拝めば病気が治るとき、幸せが舞い込んでくるとか、金持ちになれるとか。拝めば何とかなるのであれば拝み倒したかった。しかし、その都度両手両足のない体がそんなことは嘘だと気付かせていた。そんなことで何とかなっているのであれば、もうすでに何とかなっているはず。両手両足のない体が拒否したというのです。だから新興宗教にはまらなかった。これは大事なポイントのところです。
で、『歎異抄』に出会ったというのも祖母ちゃんから教えを聞いていたのだけれども、生きるための生活でありましたから、知らず知らずの間に忘れていた。それがいよいよ、精神的に行き詰まりを思って、『歎異抄』を開く。小さい時に祖母ちゃんが言っていた言葉が、いま親鸞聖人の言葉となってここにある。ですから、仏法に出遇うということは、宿善ということがやはりあるのです。大事なご縁を頂くということは大事なことですね。そして、そこでびっくりしたというのです。念仏によって慰めてもらえるどころか、両手両足がないのはあなたの責任。自分で自分の体を引き受ける以外に助かる道はないのだと。むしろ慰めてもらうつもりが突き放されたといわれております。その時に両手両足のない体が本当なのだと、それが現実というものだと気付かされた。精神的に慰められるどころか、突き放されたような状態ですから、ショックなんだけれども、体の方はその通りと体が認めたのですね。ですから心は嘘を付く。しかし両手両足がないという身の事実は嘘をつかない。嘘を付かないものが偉いんだというのが宗教ですな。ここが大事なポイントです。
我々は心でなんとか理解しようとしているけれども実はそうではない。この身の事実が念仏を抱く。嘘をつかない、誤魔化しのない身が宗教や真実を選んだ。そういえば『歎異抄』に愚身という言葉がありますね。「愚身の信心におきてはかくのごとし」。心や頭の勝手な解釈ではなくて、身の事実が私をして頷かせる。それがはたらきです。この身が選んだ宗教です。彼女は『歎異抄』から何を学んだのか。煩悩具足の凡夫ということです。煩悩を引き受けなければ、煩悩の身であるということを引き受けない限り助からない。むしろ、煩悩の身であることを救いとせよ。このことに気付いたことが、青天の霹靂ということでしょうな。我々は、受験勉強などの努力はするけれども、人間になるための努力というのがなかなかしない。久子さんは十歳の頃から人間になろう、人間になろうという動機を持って生きてきた。だから『歎異抄』を見聞きしたときにすぐにストンと頷くことができたのでしょうな。
『涅槃経』の中に信不具足という言葉がありますが、信不具足というのは、信じているが力にならないということです。なぜか。二つの理由がある。その一つは、仏法を聞いたぐらいでは力にならない。仏法を我が身に振り当てたとき、振り当てて頷いたとき信心具足するということです。力になるということです。ですから、そこには聞くということと、思うということがなければならない。『歎異抄』には、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば」と、我が身に振り当てて案ずればという具合に書いてあります。これは思案の「案」です。中村久子さんも、煩悩具足の身だということを聞いただけでは分からなかったでしょう。それを我が身に振り当ててみたとき、煩悩を引き受けるということは、煩悩の出所である両手両足のない体を引き受けるということがなければならない。それは中村久子さんが思案した結果です。
そこで発想の転換が起るわけです。腕の先がない。しかし、編み物をし、縫い物をしているこの上腕を誰がくれたのか。他でもないお父さんであり、お母さんです。だけれども、私はお父さんお母さんを恨み、また鬼のようなお母さんだと愚痴っていた。そこに自らの罪の深さに気付いたわけです。私は親たちを恨んでいたが、この両腕両足はこれまで私のことを支えてくれていたではないか。それに気付かずにこれまで生きてきた罪の深さです。そのように気付くならば、これまで鬼のようなお母さんだと思っていた人は、私のこれまでの生活を支えてくれていた上腕を作ってくれた、悲母の菩薩としての母親ではなかったのか。生きる為の腕を作り上げる為に、徹頭徹尾妥協を許さなかった真の鬼になりきった菩薩としての母親ではなかったか。鬼にまでなって私を育んで下さった悲母の菩薩として頂き直す。私が真実に出遇い、お念仏に出遇う貯めには、私をいじめた人、差別した人は、なくてはならない大切な人たちという受け止め方に変化する。また、新興宗教に熱中し、借金をして、短い命を落としたお父さん。自らの命を縮めてまで、このような生き方はするではないぞと教えてくれた仏のような父親として受け止めなおす。
初めから、仏や悲母の菩薩がいたわけではないのです。南無阿弥陀仏という教えに出遇って、彼女の現実を引き受けてみたら、鬼のお母さんを悲母の菩薩にした、愚かなお父さんを仏にまでしたのです。ここが大事なところです。そして天理教の神様にも感謝している。それは、「よくぞ神様、私の病気を治さずにいて下さいました。おかげで真実の南無阿弥陀仏に出遇わせて頂きました。もし治して下さっていたならば、私は念仏に遇い損なっていたかもしれません。」と感謝している。
みなさんご存知の『阿弥陀経』の中に、インドからの神々が沢山登場してきます。あれは、仏法を聞くことによって神々を意識するわけです。最初から神々を否定していくのではない。仏法を聞くところに、神々が現われ出てくるのです。念仏を申すことによって、敵として神々が現われるのではなく、意味を持つということです。母と父を友をすべて光り輝くものとして受け止め直されるわけです。
ならば、このような智慧はどこからでてきたのか。念仏の力です。南無阿弥陀仏から教えてもらったのは、現実を引き受けてこそということ。親鸞聖人から教えてもらったこととは、煩悩具足の凡夫であるという身の事実を思い知れということでした。そこで久子さんの偉いところは、「煩悩具足とはなんだ」と問うたことです。私の煩悩はどこから出てきているのか。それは、両手両足のないこの体から出てきている。ですから煩悩を引き受けるということは、両手両足のない体を自分自身として引き受けたということであった。
そういえば、四十八願の第一願に、「たとひわれ仏を得たらんに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」とあります。念仏申す世界、本来の人間のあり様の世界に地獄・餓鬼・畜生の関係はない。本願に誓われた第一願から彼女は引っ張ってきているわけです。念仏に出遇わなければおさまらない。そのような生き方をしてきた久子さんですから、念仏に出遇うのも必然であったことでしょう。親鸞聖人という方は煩悩があったから助かった人でした。親鸞聖人は私が助かる為の証明者ですね。その念仏者を通して生きる力を信じることができた。必ず人を通して信じる力を得るわけです。
そういえば信不具足の中に、先ほど申しました、聞いただけではダメで我が身に振り当て思案しなければ信心は力にならないということが述べられています。もう一つは、念仏という道があるということは信じても、その道を生きた人、喜ばれた人を信じなければ力にならない。人を通して念仏に出遇わなければ、それは教養にしかならない。教養は信仰ではありません。人を信じて初めてその信じたものを学ぶ。
『歎異抄』にもありますし、覚如上人の『改邪鈔』にもありますね。聖人が往かれるところに往く。たとえ地獄でもそこへ往く。金子大栄という仏教の先生は、「法は人によって重く、人によって軽し。必ず人を通して伝わるのである」と言っておられます。
ですから、中村久子さんは、あなたの信仰はなんですかと聞かれると、「親鸞聖人さまです」と答えました。親鸞聖人が念仏を信じられたように、私は信じているだけですと。これは善知識頼みということではありません。そういえば『歎異抄』にこのことがズバリと書いてあります。


弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。

(『歎異抄』)


中村久子さんが親鸞聖人の頂かれたように念仏を頂かれたということは、親鸞聖人が法然上人の念仏を頂かれたように、法然上人が善導大師の念仏を頂かれたように、善導大師は仏陀釈尊の念仏を頂かれたように頂かれたということです。そして最後は、仏陀に出遇う。私は親鸞聖人を信じていますということは、別の言葉で言うならば、私は仏陀釈尊を信じていますということです。『涅槃経』にもあるように、得道の人、念仏を喜ばれた人を信じなければいけないということです。それを中村久子さんの言葉でいうならば、念仏同士が学んだ。しかしそれだけでは力にならないでしょう。親鸞聖人を通して、証明者を通して彼女は生きる力にした。
中村久子さんは、両手両足がないことを引き受けたわけだが、しかしそんなに簡単に引き受けたわけではない。引き受けたは引き受けたけれども、この両手両足がない不便さと苛立ちは残った。久子さんの歌にこのようなものがあります。


この世にはこの手よりほかに手はなきと
短くなれる手にいいきかす


「この世には」というのは、もうすでに絶望が感じられます。この詩は仏さまの力です。しかし、いくら信仰をもらっても、やはり不便なんでしょう。腹が立つことも多いでしょう。だが、その信仰の力がどうはたらいたかというと、昔は差別に対して悲しみ、苛立ち、憎しみの炎を燃やしていたけれども、そうではなくて自分の手に言い聞かす、この身を引き受ける。何度も何度も手に向ってこの身の事実を言い聞かすのです。


手足なき身にしあれども生かさるる
今のいのちは尊かりけり


この詩は先の詩とセットです。この詩の裏には、先の詩の想いがあるのです。何度も何度もこの身の事実を言い聞かせているうちに、思わず生きる智慧というものが出てきたということでしょ。つまり、現実の身の事実に出遇わない限り、今の命が尊いという念仏を喜ぶことはでてこない。ですから、現実を引き受けたところにしか事実はないのだということです。誤魔化しのない事実の上に、念仏は生きてくるのです。久子さんの生涯はそこにあるのです。
もうお亡くなりになりましたが、金沢に米沢秀雄というお医者さんがおられました。この方は浄土真宗のご門徒さんです。その方が念仏の不思議を説明するのにこのような喩えをおっしゃられておりました。
真珠はどのようにしてできるか。海の中で貝が口を開けたところへ小さい破片が入る。貝は異物が入ってきて痛いですから、吐き出そうとしてパカパカと殻を開閉する。その時に、異物を吐き出してしまえば真珠はできません。しかし、その小さな破片が、どうあがいても吐き出すことができない場合、貝はこの身の事実を受け入れるしかないのです。その受け止めるしかないと決断した時から、真珠液という粘膜の液がでてきて年月をかけて破片を真珠にしていくのです。
ちょうど念仏もそうでしょう。現実を引き受けない限り念仏の智慧はでてきません。中村久子さんもそうでしょう。両手両足がないけれども、その責任を両親のせいにして、他人のせいにしているうちは、朽ち果てた人生だったでしょう。しかし、両手両足がないのは私の身の事実なのだと受け止めたとき、引き受けたとき、彼女は真珠になったのです。それまで真の鬼だったお母さんは、真の菩薩として輝いた。愚かなお父さんは、仏さまとして頂き直し、死んでしまえと思った人たちは、私にとって大切なかけがえのない人たちとして光り輝くのでした。そして、切断されたこの両手両足が、徹底して私に尊い命であることを教え、頂かせた。両手両足のない我が身を引き受けたとき、両手両足のないこの身は光り輝いた。つまりは、真珠になったということです。
われわれだって色々と喜びや悲しみはある。しかし、その事実を引き受けた分だけあなたの人生です。そのことを中村久子さんに学ぶのです。だから人生を引き受ける。これが『歎異抄』精神でしょう。煩悩具足の凡夫というのは、現実を引き受けたところにした真実はないということです。何度もいいますが、現実を引き受けた分だけ、あなたの人生なのです。自分の都合によって引き受けていくならば、そこには人生はありません。引き受ける為には、勇気とその思想が必要です。それが仏教なのでしょう。仏教とは何か。現実の事実を私に嘘偽りなく引き受け支えることです。引き受けさせて私という人生を生きる。生まれてきてよかったといえる人生は、引き受けてこそです。
中村久子さんの生涯は、そこのところを見事に我々に教え、伝えておいて下さっている。このようにいっていいと思います。そのような意味では、真宗文化に育てられないと人間は真の人間になれないということではないでしょうか。
現在の我々の生活の中に真宗文化はあるのでしょうか。久子さんが、おばあちゃんにお守をしてもらいながら、学校へと行けない久子の為に、念仏の話、また御開山親鸞聖人のお話しを聞いた、そのことが小さいながらに耳の底に止まっている。『歎異抄』を読んだ時、おばあちゃんを通して、親鸞聖人の言葉としてここに書かれている。そういうおばあちゃんに感謝している。久子さんは、十八歳の時に自殺をしようとして思いとどまった。その時、おばあちゃんの言葉が頭に引っかかったといいます。
ですから、家庭の中で真宗文化に育てられて、真宗という中で精神が育てられるわけです。飛騨は真宗門徒の多いところです。知らず知らずのうちに精神が育てられる土壌があるのです。中村久子さんは真宗文化に育てられた。そのことが彼女に両手両足がなくても、喜べる人生にしたというわけです。両手両足がないのは私を救ってくれた善知識であります。このようなことをいっております。
我々もそれなりに、喜び、悲しみ、苦しみはありますが、久子さんをご縁にしながら、現実を引き受けて立ってこそ私自身となるということを学んで頂ければよろしいかと思います。そして背景は、念仏を生きた親鸞聖人そのままが、久子さんが生き切った大きな力であったということです。
このようなことで、私の話を閉じさせて頂きます。ありがとうございました。


鍋島直樹(副センター長):

三島先生は、煩悩具足の現実の身を引き受けていくところに、真実に出遇っていく道があるとお話くださいました。しかし、三島先生は単に現実を引き受けていくことが容易いことではないともおっしゃられていました。久子さんには、現実を受け止めきれない辛さやもどかしさというものがある。しかし、同時にもどかしさを突き抜けたところに、手足なき身であるけれども生かされている、その今の命は尊いのだという思いが芽生えてくる。辛さと幸せという両面が現われてくるということが今日一番学ばせていただいたところでありました。
三島先生は、中村久子さんの母親がとても厳しかったのは、鬼のような側面があったのかも知れないけれども、後になってみれば真実に出遇うためのご縁であったと感じられるといわれました。その真実の世界から母親をみるならば、悲母の菩薩であり、仏として見えてきたのだとおっしゃっておられました。
ここで、一つ質問をしてみたいのですけれども、当時の見世物小屋というのは、現代の視点からみれば差別される場所として問題視されるとも思いますが、当時、中村久子さんにとって見世物小屋というのは差別される場ではなく、そこを通して自分に出会っていけるような場所だったのでしょうか。


三島多聞:

見世物小屋というのは、室町時代からあるものです。障害がある人は団体で生きていくことは許されていた。したがって、彼等が生きるためには、そのような団体に属さなければ生きてはいけません。属すことによって生きてきた。また属すことによって生きることを認めた。そのような社会でした。だから久子さんも、そのような状況がまだあったからこそそのような見世物小屋というサーカスに就職したわけです。久子さんにとっては、親に面倒をかけるより、自分で独立し、働くというところに大事なポイントがあって、見世物小屋だからどうのこうのとはありません。働かせていただける我が身を喜んだというところが本当でしょう。




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