【論文】 病を癒す仏教僧―日本中世前期における医療救済―

龍谷大学 人間・科学・宗教 オープン・リサーチ・センター
「仏教生命観に基づく人間科学の総合研究」研究成果
2008年度報告書 所収

【論文】
病を癒す仏教僧―日本中世前期における医療救済―

長崎陽子
(龍谷大学非常勤講師)



一 はじめに

鴨長明『方丈記』において「疫癘うち添ひて、まさ様に、跡かたなし。世の人、皆けいしぬれば、日を経つつ、窮まりゆく様、少水の魚の譬へに叶へり*1 」と記されたように、中世期は(むろん古代においてもだが)、疫病との戦いであった。今ほど、医学も医療体制も、病気に対する考え方も違う時代、まさしく「生・老・病・死」の実感が突きつけられていたのである。
さらに『一遍上人絵伝』中においては、当時病者が、「乞食者」として描かれている*2 ように、病や身体的障害によって社会から疎外される実状があったのは、多くの歴史学者が述べる*3 ところである。
こういった中、日本古代・中世における医療救済について、仏教僧がはたす役割はきわめて大きかった。当時、公的医療の恩恵をこうむる対象がきわめて限られている中で、貴賤、身分の上下、老若男女を問わず、高度な医術と知識を持って医療救済を行ったのが「僧医」*4 と呼ばれる仏教僧たちなのである。それにもかかわらず、医療と仏教が深く関わっていたという側面は、教学研究や仏教史全体の中で埋もれがちであった。
そこで、本論文では、仏教が医療とどのような関わりをもち、また、仏教僧が具体的にどのような医療救済活動を行っていたか考察する。さらには、病が重い人々、つまり往生の際に瀕している人々の療治についてどのような心得を抱いていたのかみていきたい。「病」を仏教僧がどのようにとらえ、どのような医療実践を行っていたのかみることは、現代における仏教社会福祉実践の意義と方途を見いだす理解の一助ともなると考えるからである。



二 仏教と医療の関係

仏教と医療の関係は深い。中でも、最も医療との関連性をよく示しているとされる経典が『金光明最勝王經』卷九除病品である。ここでは、すぐれた医方によって、衆生の病苦を取りのぞこうとする姿勢が説かれる。それが以下の箇所である。


『金光明最勝王經』卷九除病品 見是無量百千衆生受諸病苦。起大悲心作如如是念。無量衆生為諸極苦之所逼迫。我父長者。雖善医方妙通八術。*5 


これは、病に苦しむ衆生に対し、大悲の心を起こして、医方と医術を尽くして衆生を救うということが説いている。また、仏教では、「病苦」を取り除く具体的手法として、医学(医方)が僧の基礎教養のひとつとして示されるのである。この基礎教養は五明と呼ばれ、声明・工巧明・医方明・因明・内明の五つをさし、この五明を修すべきことは、日本においても明示された。それが、空海が設立した綜藝種智院式并序にあげられた一文である。


『續遍照発揮性霊集補闕抄』綜藝種智院式并序 若みれば夫れ、九流六藝は代を濟ふ舟梁。十藏五明は人を利する惟れ寳なり。*6 


ここでは、「五明」は人を利するための宝であって、修すべきであると説く。さらに、後の時代、医学の知識が僧の教養として身についていることを示す記述が見られる。それが『元亭略書』を著した臨済宗の僧虎関師錬(1278~1346)の記述である。


『病儀論』序章第一 私は生まれながらに多病であった。……元応二年(庚申)、一時病気が癒えて落ちついているとき、私はくわしく知悉している病気の性質を並べて、十章に分類してみた。*7 


虎関師錬が医療行為をおこなったという記録はないものの、このように医学に対する造詣が深かったことが伺えるのである。また、後漢代の仲景が著した中国最古の医方書『傷寒論』が、唐の貞元21年(805)に写され、さらにこれが日本に渡り、日本において僧侶の手によって康治二年(1143)書写、以後、僧によって保持されていたことがわかる記述がある。それが以下である。


『貞元傷寒論』奥付*8 
唐貞元乙酉歳、之を写す。
康治二年亥九月、之を書写す。沙門了純
上州、緑野郡浄法寺村の御獄永源寺の僧、天外、秘蔵す。


この『傷寒論』は純然たる医方書である。これを康治二年に書写したのも、保持していたのも仏教僧である。このことからも、医学が僧にとって重要な知識としてとらえられていたかがわかる。このように経典の記述から、医方書の一写本の奥書からも、仏教と医学の関係性の深さをみることができよう。



三 諸文献にあらわれる「僧医」の存在

二節においては、仏教と医療の関係をみた。医療は衆生を利するひとつの方途で、僧の知識であったことを示したが、この節では、実際、史料に登場する「病を癒す仏教僧」の記述をみていきたい。つまり医学が仏教僧の知識や姿勢に留まらず、実際に医療救済活動を行った僧がいたことを示す記述である。ただし、その記述箇所は古代*9 から中世期においても枚挙にいとまがない。したがって、ここではそのごく一部を紹介するにとどめたい。
まずはじめに、日本に律をもたらした鑑真(688~763)に関する記述である。今は散佚しているが、彼には『鑑真秘方』という医方の著作があり、『元亭釈書』には、以下のように説かれる。


モロモロノ薬種アレドモ、此方ノ人、不知案内ニテ、真偽ヲワキマフルコト、ナリガタカリシモ、鑑真コソ、コレヲシルベケレトテ、コレモ勅詔ニテ、タヾサシメタマヘバ、鼻ニテ聞テ、コレヲ別レシニ、一トシテ、トリアヤマルコトナシ*10 


これは、鑑真の薬学の知識の深さを伝えたものである。彼は日本に律をもたらした僧であるが、このように薬学知識をもたらした人物でもあった。次に、三論宗の僧で称名念仏をひろめ、『往生拾因』『往生講式』著した永観(1033~1111)である。彼もまた、病者に対する救済活動を実践した人物として『拾遺往生伝』に以下のように説かれている。


およそ慈悲、心に薫じて、もし来り乞ふ者あれば、衣鉢といへども惜まず、もし病める人を見れば、必ず救療を施せり。承徳元年、丈六の弥陀仏の像を造願して、薬王寺に安置せり。これ祇園精舎の無常院の風に擬ふるなり。またその処に湯屋を設けたり。四十余年、漿・粥・菓・、時に随ひて施衆をもてせり。禅庭に梅の樹あり。その実を結ぶごとに、必ずかの施に宛てつ。故に村里の児童、呼びて悲田の梅となせり。およそ得たるところの物は、先づ病める人に与へて、次いで仏僧に供せり。*11 


このように、慈悲心にもとづいて病者救済に尽くしたことが示されるのであるが、現代のターミナルケア施設とも言える無常院への活動、湯屋の設置、また、貧窮孤独者を収容保護する悲田院に対して、食物や梅をほどこしたことが記され、さまざまな救済活動を行っていたことがわかるのである。ただ、ここでは具体的な医療行為に関して記されていない。そこで、鎌倉初期摂政の地位にあった九条兼実の日記『玉葉』から、当時、実際に医療行為をおこなっていた僧医の存在をみていきたい。『玉葉』には多くの「僧医」が、兼実の病気治療を行っていたことが見受けられ、しかも、兼実が官医ではなく僧医を頼りとしているともとられる記述さえ見受けられるのである。
以下に紹介する箇所は、佛嚴という僧に対する記述*12 である。仏嚴は、宣旨によって『十念極楽易住集』を撰述した人物でもあり、井上光貞氏によると、教尋(永治元年(1141年)没)の弟子、伝法院学頭とし、「覚鑁の学統をくむ高野山念仏者の大立者*13 」であるが、彼は『玉葉』にたびたび登場し、兼実に仏法に関する談話を行うと同時に、兼実の療治も行うのである。それが以下の記述である。


安元三年(1177)四月十二日条、佛嚴聖人来、余隔障謁之、談法文事、又間風病之療治、此聖人能得醫術之人也*14 


このように法談を行うと同時に、兼実は仏嚴を医術をよく心得た人と理解しており、たびたび療治を行ってもらっている。また、『玉葉』には、当時の官医、つまり公的な施療機関の状況をよく示している記述が示されている。それが以下の記述である。


安元三年(1177)六月十日条、源中納言被来、相具筑紫医僧、字大善房、之為令灸予疾也、年来諸医、加種々療治或減或増、遂今及大事、件医僧近日又別施験、……是最密々事也、事雖非穏便、試爲全身命、不願世上之毀*15 


これは当時、権中納言であった源雅頼が、兼実の療治のために、筑紫医僧大善房を連れてきたことを記している。摂関家嫡流である兼実はきわめて公的な人間であり、官医による療治が習わしであったが、腫瘍を官医に診せたものの、いっこうに治らない。病に陥ること自体が王家への忠義にそこなうことであったから、世間のそしりをうけることをのぞまないために、秘密裡に大善房に療治せしめたということが示されている。この記述から、「僧医」に対する兼実の信頼は、官医と同等、むしろそれ以上とも受け取られるのである。
このような記述は、兼実にとどまったことではない。藤原定家の日記『名月記』にも、「僧医」が登場*16 する。以下が、その記述の一部である。


嘉禄元年(一二二五)三月十六日条、心寂房来、病者事示合。先可服牽牛子由〔剥其皮摺之、以湯服〕示之*17 


ここでは、定家がもっとも信頼をおく心寂房が、定家の妻の病に関して、じっさいに湯薬の処方を指示した記述である。具体的な薬草名「牽牛子(=朝顔の種)」があげられ、その処理方法も述べられている興味深い箇所である。
このように、「僧医」の活躍が、日記によって生々しく浮かびあがってくる。さらに、後代にはなるが、日本のみならず海外においても、日本の「僧医」の医術がすぐれていることを記している文献がある。それが以下である。


世宗二十九年(1447)五月、僧崇泰亦受貞盛書契而来精於医術 上欲試之館於興天寺待之甚厚命医員全楯義金智辺漢山伝習其業*18 


これは、当時の対馬守宋貞盛の使者であった僧崇泰が、医術に精通していたために李朝の官医三人に医術を教え伝えるよう、朝鮮王朝三代世宗が命じたことをしめす記述なのである。
このように、「僧医」は、僧の基礎教養としての医学の域を超え、じっさいに医療救済活動を行い、医術に関しても先駆的な知識と技術を有していたことがうかがえるのである。
平安末期から鎌倉期において、高度な医術を有した「僧医」の存在は特に顕著になっていくのであるが、その背景には、平安期にはいり、律令制の崩壊とともに、官医が丹波・和気氏の世襲となったこと*19 。考試を受けない者も医者として認定*20 されて、医師の質がおち、僧がその役割を代行したという事情があるようである。あるいは社会的混乱によって、にせ医者や利潤のみを追求する医者が増える*21 という状況もあった。そのような状況下、高度な医学知識と技術を有した「僧医」の存在は、身分上下、貴賤を越えて心強い存在であったであろう。



四 医療救済事業を行う仏教僧たち

鎌倉期において、日本の仏教史上、もっとも救済事業に尽くしたとされる人物が登場する。それが忍性(1217~1303)である。西大寺中興の祖であり真言律宗の開祖でもある叡尊*22 から「慈悲ニ過ギタ」とさえ称された忍性は、貧窮者や病者などの救済*23 を積極的におこなっていくのである。
忍性の活動に関しては、すでに多くの研究成果が存在し、筆者が補筆する必要はないので、彼の事業について紹介するにとどめたい。
忍性の事業展開は、奈良と鎌倉において行われる。奈良においては、西大寺内に常施院、悲田院を建立。日本最古の救癩施設(北山十八間戸(奈良))を設立する。
つぎに鎌倉における活動であるが、建長四年(1252)36才のとき関東に下向。北条氏の支援により、文永四年(1267)から鎌倉極楽寺を中心*24 に医療救済事業を推進した。中でも、もっとも大きな事業は、鎌倉において疫痢が流行したことにより、弘安十年(1287)極楽寺内に恒常的病屋(鎌倉桑谷療養所)を開設したことであろう。
『元亭釈書』では、二十年間で、治癒したものが四万六千八百人、死するものは一万四百五十人とし、活きたる者は五分の四を超えた*25 と述べている。また、療病所以外に、関連施設として薬園、薬湯室、馬病者を設置し、不定期の活動として飢饉等の罹災民救済などがある。
このように積極的な救済活動を行った忍性と深い関わりがあったとされる人物で、注目すべき人物が登場する。それが、梶原性全(1266~1337)(浄観房)である。彼は、叡尊に指示し、極楽寺においても医療活動を行い、二冊の医学書を記した中世期最高の医学者であり「僧医」であった。それにもかかわらず、残されている著述が医学書のみということから、日本医学史においてはきわめて有名な人物でありながら、仏教学側からはほとんど顧みられることがなかった人物である。
彼の動向は記録がきわめて少なく判然としないが、石原明*26 氏によると、以下のようである。
文永三年(1266)相模国鎌倉郡梶原郷において生まれる。後に南都に上がり、西大寺叡尊(1201~1290)に師事、そのかたわら、和気氏・丹波氏諸派の医学を学んだようである。また『沙石集』の著者で、医術活動も行っていたとされる無住(1226~1312)と関わりがあったとされる。37才より41才のころ(成安四年(1302)~嘉元二年(1304年))にかけて、日本ではじめてかなまじりの医学書『頓医抄』五十巻を著し、50才から62才の頃にかけて、子息冬景とその子孫のために、『万安方』六十二巻を著した。また、『万安方』の著作中は鎌倉に住していること*27 が記され、医療活動は極楽寺などを中心に行っていたとされる。さらに、性全の娘が、興福寺三綱職家のひとつに嫁していることが、山田重正*28 氏によって判明している。
彼の著した医学書『頓医抄』『万安房』は、当時の最先端とも言える宋の医学書が参考にされており、服部敏良氏によると、二書の参考となった宋書は『太平聖恵方』『和剤局方』『聖済総録』『欧希範五臓図』など*29 多数に渡っている。その内容の質の高さからして、服部氏は、当時の官医惟宗時俊が著した『医家千字文註』と比較して、


『頓医抄』が『聖恵方』その他の新来の医書を多く引用し、しかもわが国古来の秘伝をも併せ記しているのに比べるとき、大きな差があることに気付くであろう。当時の官医学が、徒らに旧套を墨守して古方を尊び、進取の気象に欠けていたことは、世襲医学の弊であるが、本書においても明らかにこれを認めることができる。*30 


と述べ、また新村拓氏も同様の指摘*31 を行っている。このように当時傑出した医学書を著した「僧医」梶原性全であるが、彼は、かな交じりの医学書『頓医抄』を書いた理由について、以下のように述べる。


コレ秘事トモイウヘケレトモ此仮名カキノ趣キアマネク人ニ知ラセテ天下ノ人ヲタスケンカタメ也。ヨノツネノ医師ノ或ハ利潤ヲ専ラニシテヤスキ事ヲカクシ、或ハ偏執ヲサキトシテ益アルコトヲ秘ス、ハナハタコレ天ノ心ニタカヒ人ノ身ニ益ナシ*32 


その頃、医術はむやみに他者に洩らす技術や知識ではなく、師資相承の秘法とされていたが、当時の利潤を追求するばかりの医師が増えたことを嘆き、広く普及させんがために書いたとするのである。この内容は、当時の医師の現状とそれに対する性全の憤慨が良くあらわされていると言えよう。この『頓医抄』は、彼の意図するところのとおり広く書写されたようで、龍谷大学写字台文庫にもその書写本が残る。
また、彼は医療行為に対する姿勢を、『頓医抄』巻四十六、医師の要心を説く項に記している。それが以下である。


慈悲ノ心ヲ以テ行ハ縦ヒソノ業拙クトモ皆効アルヘシ。欲心ヲ不仁ニシテ学セハ千書万方ヲ明メ無尽ノ妙薬ヲ施ストモ其功不可有*33 


ここでは、「慈悲ノ心」がなによりも医療行為に対し重要であることを述べている。この慈悲の姿勢は、「僧医」ならずとも、医術を施す者の必要な姿勢として、当時、説かれていた。以下は、梶原性全と同時期に官医であった惟宗具俊(?~1288~?)の『医談抄』の記述である。


医道ノ本意ハ、慈悲ヲ先トシテ、救療ノ心ヲ発ベキナルベシ。千金方云、先発大慈惻隠之心……最勝王経云、先起慈愍心、莫規於財利、我已為汝説 療疾中要事 以此救衆生 当獲無辺果、ト云。……マコトノ大慈ノ御心ナレバ、病苦モ忽ニソノ験アリケルニヤ。阿弥陀仏ノ五劫ノ思惟ノ真実ナシバ、虚仮ニテハ、往生カナハヌヨウニ、末代ハ真ノ心ナクシテ、名利ヲ先トスレバ、薬ノシルシモナカルベシ。*34 


このように、医療行為において、第一に必要な理念として慈悲が明らかにされている。また、第二節で示した『金光明最勝王経』もあげられるのである。これら記述から、当時の日本の医学界において仏教が深く根ざしていることが理解できる。また、これは仏教社会福祉活動を行う際、もっとも基本的な理念として「慈悲」があげられる*35 が、衆生に対する救済行為の理念が「慈悲」にあったことがあきらかに示されたといえよう。



五 療病と往生の問題

前節では、鎌倉期において積極的な救済活動を行った忍性と、また当時、最先端の医学知識をもって療治にあたった梶原性全の存在とその活動内容を紹介した。しかし、病や老いのきわみにあるのは、だれもが逃れられぬ死である。忍性が設立した鎌倉極楽寺においても、治療の施しようが無く、静かに死を迎えるべきひとびとのために造られた無常院があったことは知られる。
そこで、当節では、療治と往生の問題に関して、いくつかの見解を紹介したい。病を経て死にいたるその間際、どのように死を看取り、いかに往生せしめるかという関心は源信『往生要集』以来きわめて強くなっていくのはよく知られるところである。多くの往生行儀が、その後著され、数々の著作に関して多くの研究*36 も行われている。そこで、ここでは往生の際における医療の役割をみていきたい。というのも、往生の際で薬を使用するかどうかの議論は少なくともあったようで、善導(613~681)『臨終正念訣』において、以下のような問いとそれに対する答えが記されるからである。


問求医服薬応不用耶 答此但論用心矣其薬医療不妨自求然薬唯能医病豈能医命耶命若尽薬豈奈何*37 


ここで善導は、「薬は病をいやすものであって、命をいやすものではない」と答えている。このように往生の際、救命処置として医療をすべきかと云う問題が横たわっていたことが、この記述から伺えるのである。そこで、真言宗、法相宗、浄土宗の代表的な臨終行儀書にあげられた医療の記述をみたい。
はじめに、真言宗においてはじめて浄土教をとりいれた実範の『病中修行記』をさらに体系化したとされる覚鑁(1095~1143)『一期大要秘密集』の内容をみる。覚鑁は、


一 可身命用心門 療病常安穏欲積往生業
寿限未決定之間不可一向棄捨身命。且祈仏法。只加医療以爲安身延寿之方術。非是徒愛躯命、唯欲厚守真乗之結縁也。*38 


とし、ここでは、寿命が決定していない間は、医療を行うこととするが、これは身命に愛着を起こさせるものではないことを明記する。さらに後述箇所に「医薬無験命終在近。……表捨娑婆穢処得極楽浄土」として、やはり医療が延命の術であるような記述はみられない。
次に、法相宗である。湛秀(1067~1122)『臨終行儀注記』、貞慶(1155~1213)『臨終之用意』がその代表的なものといえるが、後者には療治の記述は無く、『臨終行儀注記』には以下のように記す。


人臨命終。自非仏像勿見他色。自非法音勿聞他声。自非往生勿語他事。云云此談最要也。専勿忘之。但揚(湯)薬者尋問医家随宜用之。*39 


ここで、湛秀は、臨終時に観仏や仏音を聞くことなどに専念せしめるために、薬が必要かどうかを医者と相談しつつ使用を認めているのである。この記述は、上記の記述にも、次にあげる良忠の記述にもみられない。浄土宗良忠(1199~1287)『看病用心抄』には、


療治灸治の事ハこれ命をのふる事ならす たゝ病苦をのそくハかり也 されハ苦痛をやめて 念佛せしむるためにハ おのつからもちひへしといへとも これもあなかちに尋ねもとむへきにあらす
其故ハおよそ生死のきつなにハ 身を愛し 命をおしむをもとひとし 往生のさハりには 生をむさほり死をおそるゝをみなもととす しかるに療治ハ苦痛のためにといふはにたれとも いかにも身命をおしむ心ねよりもとめぬへき事にて候*40 


とし、良忠は療治を「たゝ病苦をのそくハかり」、あるいは「療治は苦痛のためにといふはにたれとも いかにも身命をおしむ心ねよりもとめぬへき事」とし、あくまでも病から生じた苦痛をとりのぞくものとする。
たしかに、善導が述べるように、薬は命をいやすものではない。どのようなすぐれた医術をもってしても死を逃れることはできない。そこで、真言宗系においては、医療は命寿をむだにすべきではない、という姿勢に基づいて必要とされた。法相宗湛秀においては、死の際に仏縁に親近し往生に専心するために、薬を用いることの可能性をのべている。良忠は、病の苦を抜くためにの医療は認める。いずれも往生の妨げになるような医療行為は否定されるものの、苦を取り除き、往生を勧めせしむ医療行為は認められているといえよう。



六 まとめと今後の課題

本論では、医学は、仏道修習の一として、あるいは僧の教養のひとつとして捕らえられていたことをおさえた上で、古代から中世前期にかけて、じっさいに療病活動を行った人物や記録の紹介を行った。さらに、療病と往生の問題として、いくつかの「臨終行儀書」から医療に対する見解を探った。
中でも、忍性、そして梶原性全の存在は、その救済活動の範囲、活動内容、医学知識は、きわめて広く優れたものであることがうかがえ、日本の一時期において、仏教僧が、医療救済活動の中心を担っていたことがわかる。今回は梶原性全については、その存在を紹介する程度にとどまったが、仏教学的見地からの梶原性全の研究、あるいは、他にも医学書を著した「僧医*41 」や史料にのぼる「僧医」がおり、検討が必要であろう。今後の課題としたい。
今回は紙数の都合で、仏教と医療についての概観を述べるにとどまったものの、そこからは、病苦をのぞくために、慈悲心をもって最大限医療に尽くし、往生の際には静かに見まもる仏教僧のすがたが浮かびあがってくるのである。



【註】

  • 安良岡康作訳注『方丈記』講談社学術文庫、72頁
  • 日本絵巻大成別巻『一遍上人絵伝』中央公論社、196頁など
  • たとえば、藤原良章氏は「病者非人」「重病非人」と呼ばれる人々は「世話をしてくれる縁者も、また財産もなく、路頭に迷い、乞食等をせざるを得ないような病者等――こそが、病者非人・重病非人に対応していたと考えられる(藤原良章「中世前期の病者と救済」『中世的思惟とその社会』吉川弘文館、1997年、114頁)」と述べている。
  • 当時は「僧医」という職業身分があったわけではない。高度の医療行為をおこなっていた僧を「医僧」「法師医師」 と呼んでいたことが日記などに残されている。また、ほかにも地方などには「くすし僧」「くすし坊主」「寺医」と呼 ばれる人々が存在していたことを新村拓氏は指摘している。(新村拓『日本医療社会史の研究』法政大学出版、2001年 第四刷、350頁
  • 大正16、447頁下
  • 『日本古典文学大系71』岩波書店、420頁
  • 『大乗仏典〈中国・日本編〉第25巻』中央公論社、287頁
  • 『貞元傷寒論』出版科学総合研究所、1979年、143頁~144頁
  • 日本医史学の第一人者である服部俊良氏は、その著作において、奈良時代の「僧医」「看病僧」を列挙しているが、 当時、律令制で医疾令が制定されているにもかかわらず、天皇に近侍し看病するのは、仏教僧であったことを指摘し ている(服部敏良『奈良時代医療史の研究』吉川弘文館、59頁~69頁)。また、酒井シヅ氏は、奈良時代の天皇の病気 治療と看病が僧侶によって行われていたことを示したうえで、「この時代の看病に名を連ねた者はすべて僧医であった (酒井シヅ『病が語る日本史』講談社学術文庫、61頁)」と述べる。
  • 『元亭釈書』巻一(『続神道大系 論説編』)、47頁
  • 『日本思想体系7往生伝 法華験記』、382頁
  • 佛嚴以外に、鎮西医師(賢障房、安元三年正月二十六日条)、筑紫医師(大善房、安元三年六月十日条)、大和国医 僧但馬君(治承二年閏六月二十三日条)、知康法師(文治五年八月二日条)などが記されている。
  • 『日本思想体系7往生伝 法華験記』、758頁
  • 『玉葉』巻二十四
  • 同上
  • 心寂房以外にも、空体房(承元元年九月二十九日条)、重(空か?)体房(建暦二年十月二十五日条)、金蓮房(寛 喜三年七月二十日条)などが登場する。
  • 稲村栄一『訓注名月記』第五巻、松江今井書店、2003年、138頁
  • 『李朝實録』世宗巻116
  • ただし、惟宗具俊『医談抄』下巻には「不肖ノ子孫、家ヲウケツルハ、道ノ陵遅、朝ノ衰微ナルヘシ」とし、世襲 の弊害を暗に批判している箇所がある(美濃部重克編『伝承文学集成22 医談抄』三弥井書店、2008年、178頁(以下、 『医談抄』)、参考=新村拓『死と病と看護の歴史』法政大学出版局、1997年第5刷
  • 服部敏良『平安時代医療史の研究』吉川弘文館、1988年、112~113頁
  • 4節、梶原性全の項参照
  • 忍性と梶原性全の医療救済活動に最大の影響を与えたのは、叡尊(1201~1290)である。叡尊は真言律宗の祖とし て知られるが、彼自身も非人救済、女性救済、葬送従事、宇治橋の修造など多くの救済事業を率先した。(参考:松尾 剛次編『叡尊・忍性』吉川弘文館、2004年)
  • ただし、この救済活動の対象となった非人(病者)への差別感を生じせしめた一因に仏教があるという批判は、多 くの歴史学者が指摘している点も考慮しなくてはならない。たとえば、「社会不安の一因となった非人はまた一般社会 からは仏教思想の滲透していた当代において前世の因果関係から現世に賤民として位置づけられていた。例えば中世 において最も多く書写され読まれた経典『大般若経』の内にも「謗般若者堕地獄餓鬼余報生人中下賤」(巻第435)と ある(吉田文夫「忍性 の社会事業について」『日本における社会と宗教』吉川弘文館、1969年、117頁)。」とし、吉田 氏は、史学的立場にもとづき、当時の差別観や社会状況から、鎌倉仏教の諸師たちの救済の限界性と仏教思想への批 判を行う。同様の見解を示すのが、横井清氏(横井清「中世民衆史における「癩者」と「不具」の問題」『中世民衆の 生活文化』東京大学出版会、1973年、35頁)、細川諒一氏(細川涼一『中世の身分制と非人』日本エディタースクール 出版部、1994年、29頁)などである。
  • 石井進氏は、鎌倉における忍性の救済事業の地域を、極楽寺門前、坂の下の前浜、桑谷(鎌倉大仏途中)、深沢(大 仏のある深沢谷)地域であったことを指摘する。(石井進「都市鎌倉における「地獄」の風景」『御家人制の研究』吉 川弘文館、1981年、83~85頁)
  • 『元亭略書』巻13、347頁
  • 石原明「梶原性全の生涯とその著書」(『万安房(全)』科学書院、1986年)
  • 服部氏は、嘉暦元年十二月二十四日の日付で、『万安房』の奥書に、『万安房』の校正中だったために、万寿寺(鎌 倉)における塔婆供養に行けず、残念であるということを記していることを指摘している。(服部敏良『鎌倉時代医学 史の研究』吉川弘文館、1964年、96頁、(以下、服部鎌倉)、
  • 山田重正「梶原性全とその周囲」『花園大学研究紀要』創刊号、1970年
  • 性全が引用した宗書の文献に関しては、服部敏良氏が詳細な考察を行っている。(服部鎌倉100~162頁)、また『太 平聖恵方』百巻は太宗年間(977~997)、『和剤局方』は徽宗大観年間(1107~1110)、『聖済総録』は『太平聖恵方』 の後代の作である。また『頓医抄』巻四十四に所収された内臓図は、北宋慶暦年間(1045年)に描かれた世界最古の 解剖図「欧希範五臓図(現存せず)」をもとに、崇寧年間(1102~1106)にえがかれた『存真環中図』を直訳、転載 したとされる。(参考:服部鎌倉、116頁、杉立義一『お産の歴史』集英社新書、2002年、78頁)
  • 服部鎌倉166~167頁、また、日本医学史の先駆的研究者富士川游氏は、室町期の医学において「我が医学も僧徒 の手に帰したり」と述べる。(富士川游著、小川鼎三校注『日本医学史綱要1』東洋文庫258、1974年)
  • 新村拓『日本医療社会史の研究』法政大学出版局、1985年初版、321頁「鎌倉期に著された官医である丹波行長の 『衛生秘要抄』や惟宗時俊『医家千字文註』をみると、引用書目は古代の『医心房』のそれとほとんど変わらず、旧套 を墨守し古方を尊んでいるにすぎない。」とする。
  • 『頓医抄』八巻
  • 『頓医抄』四十六巻
  • 『医談抄』168頁~169頁
  • 拙稿「仏教社会福祉における仏教思想の必要性」、龍谷大学 人間・科学・宗教ORC長上深雪編『現代に生きる仏教 社会福祉』法蔵館、2007年
  • 宮林昭彦氏は、中国、義浄、善導、道宣の臨終行儀についての比較検討を行っている。いずれも日本仏教に莫大な 影響を与えた人物であり、その姿勢のちがいは注目すべきものである。(宮林昭彦「中国の臨終行儀」『戸松教授古希 記念 浄土教論集』大東出版社、1987年)、また、三宅守常氏は真言系の臨終行儀と南都系の臨終行儀の内容を子細に 検討している。(三宅守常「中世の臨終行儀と明恵」『大倉論集』第四十四号、2000年)
  • 浄土宗全書四、797頁下
  • 興教大師全集下巻、1197頁
  • 大日本仏教全書70、309頁下
  • 伊藤真徹『日本浄土教文化史研究』隆文館、1975年、449頁
  • 単独の産科専門書としてはわが国最古の書『産生類聚抄』を著した鎌倉称名寺明忍房剣阿、室町期には、『福田方』 『五体身分集』を著した南禅寺僧有隣などがいる。