5. 足利義山 『義山法語』 / 甲斐和里子編

龍谷大学 人間・科学・宗教 オープン・リサーチ・センター
第7期研究展示
「死を超えた願い-黄金の言葉-
-見ずや君 明日は散りなむ花だにも 命の限り ひと時を咲く-」


【黄金の言葉-先人の心に学ぶ- その5】
足利義山 『義山法語』 / 甲斐和里子編


三女おとぢ大病にかかれりと きき進徳教校よりおくりし文


ひとへに仏の御ちからにて助けたまはるなれば、たとひ歓喜の心のおこればとて、これにて参らるると思ふべからず。また歓びのなければとて、かくては参られまじと、気遺ふべからず。
ただ思ひだせしときは、いつにても、今の心のままにて助けたまふとはありがたやと思ひて、称名相続するばかりなり。
それにて往生のちがうことあらば、仏も蓮台には居らじと約束したまひしうへなれば、さらに気遺ひあるべからず。
ただこのあさましきままを、おとさぬとある仏をたよりとして外に何事も考ふるに及ばず。
ありがたき心はおこらずとも、御礼の称名わするることなかれ。


いよいよ重患となり往生の日もせ まれりとききふたたび遺はせし文


不定のさかひに候へば、誰が先だちまうすべきやらん、一日もゆだんならず候へば、かならずかならず御慈悲をわすれざるよう心がけらるべし。 わが心をさぐりて、いろいろ案じ候へば、ワヤワヤとわからぬやうになるべければ、それをばままよとうちすてて、このままを御助けとよろこぶべし。
よろこばれぬときは、無理によろこぶにも及ばず、ただ称名して、御助けをまつばかりにすべし。
往生浄土の望みなきにはあらざれども、常に世のことに心みだされ、道心もおこらず、浅間しくあかしくらすにつけて、このありさまにては御助けもあるまじなど気遺ふはあやまりなり。
かかる懈怠のものをも救いたまふ大願業力のありがたさよとよろこぶべし。
わが心をいろいろ案じまはして、これにてよきか、あしきかと願力の手強き御手もとを外へとりのけて、要らぬ心配をなすべからず、いつにても未来のこと思ひいで候ときは、何事も引受て助けんとある御喚声を仰ぎたてまつるべし。
そればかりにて、何時おそろしきやまひにとりあひ、称へず念ぜずして、苦しきまま命終り候とも、蓮台にて眼をさまさせたまふことを、一念発起平生業成とは仰せられたるなり。
かへすがえす往生のことについては、一切如来様が引うけて居てくださるから、おまへは、ちつとも心配せいでよろしく候。あらあらかしこ。


長男日野義淵が大学病院にて危篤に
陥りたる時半紙一まいに大きく書き
ておくりし文
マイルハカライヲスルニアラズ。マイラシテクダサルヲマツバカリナリ。

(『義山法語』甲斐和里子編 6頁1行目-10頁1行目 百華苑 1955(1985)年)



慚愧
み光のうちにすむ身のおろかにも
死ぬてふことは淋しかりけり

よろこびの日に日に近くなりゆくを
よろこびえざるわが心かな

おどりあがりよろこぶべきをよろこばぬ
われをあはれとみそなはすらん

辞世
生まれずは覚らじとこそ誓ひてし
弥陀の御国へ今ぞゆくなれ

(『義山法語』甲斐和里子編 58頁7行目-59頁5行目 百華苑 1955(1985)年)



足利義山(1824-1910)

江戸時代後期から明治時代にかけた浄土真宗本願寺派の真宗学研究者。宗学は、僧叡の門弟である慧海や泰巌に学んだ。1849年備後の勝願寺に入る。大教校教授、広島の博練教校総監などを経て1890年大学林教員となる。1891年法嗣大谷峻麿(光瑞)の学事係を務め、大谷学問所において教行信証などを進講した。この年、東陽円月と滅罪義論争を展開し、円月の「体滅相存説」を批判して「いわれ滅罪説」を主張した。1891年勧学となり、1895年西本願寺の安居で「正信念仏偈」を講義した。1897年大学林綜理に就任した。1890年仏教大学(龍谷大学)講師。僧叡の学系を承けるが、学派にこだわらず空華学派などの学説を広く尊重し、折衷的な学風を築いた。著書に、『教行信証摘解』9巻、『真宗百題啓蒙』、『真宗俗門』、『真宗弁疑』、『二種深信対問』など多数。足利瑞義、甲斐和里子の父である。



第7期研究展示
「死を超えた願い-黄金の言葉-
-見ずや君 明日は散りなむ花だにも 命の限り ひと時を咲く-」


【黄金の言葉-先人の心に学ぶ】


【展示品】


【研究論文】